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2003年11月、全世界で、新たに発売されたビートルズの「レット・イット・ビー・ネイキッド」(発売初年度 1970年5月)を聴いている。涙が出る。あの時に、あの時代、周囲で起こったことが脳裏に次々に浮かんでは消える。
あらたになったこの「レット・イット・ビー」は、録音後、音楽プロデューサーのフィル・スペクターによって施 されたオーケストレーションが外され、当時の音源そのままに、再生された。ジョンのポールの肉声が、耳に心地よく、響いてくる。ジョンとジョージは、既に 亡くなってしまったが。しかし彼らはこのアルバムの中でも、生き生きと歌い続けている。
それにしても、随分と演奏時間の短いアルバムに感じる。何度も何度も、頭から繰り返す。するとレコードがすり 切れるほど、聴いた若き日が甦る。わずか35分のアルバムだ。ゲットバックが始まり、あっという間に、「アクロス・ザ・ユニバース」となり、最後の「レッ ト・イット・ビー」に移う。
この時の録音時(1969年1月)、ビートルズのメンバーの思いはバラバラだった。ジョンは、もうビートルズ なんて、必要ないと思っていた。ポールは何とか、ジョンをビートルズに残そうと必死だった。最初のスタートの「ゲット・バック」は、明らかにポールから ジョンへのメッセージだった。しかしジョンは、別の世界を目指した。ヨーコとはじめた平和運動や様々な活動、だからジョンは、「アクロス・ユニバース」 (宇宙を超えて)と歌ったのだ。ただポールは、「ゲット・バック」(戻って)と叫んだ。
ジョンとポールの関係は、まるで別れ行く男女のように切なく悲しい。冬のビルの屋上でビートルズがそろって 歌った映画が残されている。ジョンは、毛皮のコートを羽織って、長い髪を揺すりながら、切なくリードギターを引いた。そんなジョンに、ポールは、「ゲッ ト・バック」(戻って)と叫ぶ。
しかしこの頃、もうビートルズはグループとしては終っていた。ジョンとポールという二人には、別れの時が迫っ ていた。流れた時計の針を元に戻すことは誰でもできないのだ、人は皆、ジョンとポールのように出会い、そして別れてゆくものなのだ。その切なさが、このア ルバムにはある。発売当初、このアルバムの評判は、「散漫な印象のアルバム」というもので、けっして芳しいものではなかった。しかし今、改めて聴いてみる と、切ないほど、無常を感じさせる音楽だと改めて感じた。
、再び北の大空に向けて飛翔する白鳥のように、音楽というものも、出来上がった瞬間から、次元を超えて、成長 するものかもしれないとさえ思う。聴き手の感性もまた違って来ているということだろうか。
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自由なイメージを持って、このアルバム「レット・イット・ビー」を聴いていると、これまでの評価とはまったく別の印 象が沸き上がってくる。このアルバムのセッションが行われたのは、1969年1月のことだ。その模様は映画にもなっているから観た人も多いはずだ。もう 30年以上も前のことになる。イメージで言えば、このアルバム「レット・イット・ビー」は、少年ポールの先輩ジョンに対する失恋のストーリーのようなもの にある。
何を言うかと思う人もいるだろう。まあ、佐藤の私見である。既にビートルズのメンバーのうちふたり(ジョンと ジョージ)は、この世の人ではない。もうビートルズは存在しないのだ。聴くたびにある種の郷愁の入り交じったような寂しさが漂う。そしたらふと歌が湧い た。
僕らの青春「レット・イット・ビー」を聴けばコーヒーカップの湯気秋空に消ゆ
1969年、「レット・イット・ビー」の時代、ビートルズは、まさに世界の脅威のヒーローだった。かのプレス リーも、自分の人気を軽く足蹴にしたジョンとビートルズが大嫌いだった。それはそうだだろう。ジョンのアイロニー(皮肉)とナーブ(生意気)な発言は、プ レスリーだけでなく、世の大人たちを刺激した。「俺たちは、若者の間ではキリストよりも知られている」(1966)という発言がった。そこから「若者」が 外れて、マスコミに流れた。「俺たちはキリストよりも有名だ」ヨーロッパやアメリカの敬虔なキリスト信者たちが、怒りに震えた。たちまちレコードの不買運 動が起き、彼らのアルバムは、ブルドーザーで、ぺしゃんこにされた。
それでもジョンは、まったく意に介さなかった。彼は反抗的な若者のカリスマ的存在となり、常にその発言が注目 されるようになった。そんな彼らを見て、ミックジャガーらのローリング・ストーンズが、過激な装いで、ミュージックシーンに登場した。彼らは、ビートルズ を常に意識しながら、自らの世界を築いていった。ミックとキースが書いたストリートで暴れる若者を讃美した文字通りの歌「ストリート・ファイティングマ ン」とジョンの「レボリューション」が比較された。二人の違いは、暴力に対する考え方だ。ジョンは、まず革命叫ぶより、己の内面を変えろと叫んだ。当時、 ジョンとビートルズは日和見で、ローリング・ストーンズはよりラジカルと言われた。しかしどうだ。その後の世界の流れをみれば、ジョンの平和の思想が、大 きな平和思想の潮流になっている。どちらが、深く現実を見据えていたか。未来を見据えていたか。もはや言わずもがなである。
当時、ジョンは、ビートルズというものの価値と時代が終わったことを知っていた。一方、ポールは違った。彼は ビートルズを守ろうと必死になった。だからこのアルバム作成に当たっては、ジョンに戻って欲しいというメッセージを込めて「ゲットバック」を書いた。まさ にジョンに対するメッセージだ。俺たちが作ったビートルズは不滅だ。このままビートルズとしてやろうよ。彼はそう兄貴分のジョンに言いたかった。ポールに は、ジョンの発するオーラが必要だった。しかしジョンには、ポールは昔の彼女のような存在でしかなかった。ビートルズの音楽的霊感の源泉は、残酷だが、常 にジョンの魂の中にあった。そのジョンの魂を失った時、ポールはただの人になり、ビートルズはグループとして、存在しえなくなった。
ジョンは、既にポールとはまったく別の方角を見ていた。アルバム作成の年、1969年11月、ジョンは、ベト ナム戦争が泥沼化し、イギリス政府が、アメリカ支援を明確にしている理由で、エリザベス女王から貰った勲章を返却した。これは政治的な抗議の姿勢を明らか にするための行為だった。ジョンは、ベトナム戦争に反対し、世界平和を実現したいと思った。だから世界中で蔓延する暴力革命の肯定論に関しては一定の線を 引いた。「君たちは革命革命と言うけれど、そのようなものでは、世の中は変わらないよ」と「レボリューション」(1968)という歌で、若者にメッセージ を発した。イメージによる平和。まず人が心の中で、平和を念ずることが大切だと説いた。イメージが、世の中を変える第一歩であることをジョンは、世界中に 伝えたかった。しかしアメリカのCIAは、ジョンを危険思想の「アカ」と判断をして、その行動を常に監視した。彼らは間違っていた。まったくジョンを知ら なかった。彼は「革命家ゲバラ」ではなく、「平和主義者ジョン・レノン」だった。ジョンの思いは、数年の後、「イマジン」(1971)という名曲として結 実した。
この頃を振り返り、ジョンは、ポールの書く作品について、このように表したことがある。「あの頃のポールに は、差し迫った霊感に拍車がかかっていた。」それは、自分の霊感の源泉としてのジョンが離れて行けば、自分はどうなってしまうのか。せっかく手にしたビー トルズという名声はどうなってしなうのか。という不安に他ならなかった。だからこのアルバムには、芸術家としてのポールの最後の輝きがある。名曲「ヘイ ジュード」(1968)も、父親のジョン・レノンが離婚して寂しがっているジョンの息子ジュリアンに対する慰めの歌と言われているが、結局は、ジョンに対 するメッセージソングだった。