新たに発売された「レット・イット・ビー」を聴く
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2003年11月、全世界で、新たに発売されたビートルズの「レット・イット・ビー・ネイキッド」(発売初年度 1970年5月)を聴いている。涙が出る。あの時に、あの時代、周囲で起こったことが脳裏に次々に浮かんでは消える。
あらたになったこの「レット・イット・ビー」は、録音後、音楽プロデューサーのフィル・スペクターによって施 されたオーケストレーションが外され、当時の音源そのままに、再生された。ジョンのポールの肉声が、耳に心地よく、響いてくる。ジョンとジョージは、既に 亡くなってしまったが。しかし彼らはこのアルバムの中でも、生き生きと歌い続けている。
それにしても、随分と演奏時間の短いアルバムに感じる。何度も何度も、頭から繰り返す。するとレコードがすり 切れるほど、聴いた若き日が甦る。わずか35分のアルバムだ。ゲットバックが始まり、あっという間に、「アクロス・ザ・ユニバース」となり、最後の「レッ ト・イット・ビー」に移う。
この時の録音時(1969年1月)、ビートルズのメンバーの思いはバラバラだった。ジョンは、もうビートルズ なんて、必要ないと思っていた。ポールは何とか、ジョンをビートルズに残そうと必死だった。最初のスタートの「ゲット・バック」は、明らかにポールから ジョンへのメッセージだった。しかしジョンは、別の世界を目指した。ヨーコとはじめた平和運動や様々な活動、だからジョンは、「アクロス・ユニバース」 (宇宙を超えて)と歌ったのだ。ただポールは、「ゲット・バック」(戻って)と叫んだ。
ジョンとポールの関係は、まるで別れ行く男女のように切なく悲しい。冬のビルの屋上でビートルズがそろって 歌った映画が残されている。ジョンは、毛皮のコートを羽織って、長い髪を揺すりながら、切なくリードギターを引いた。そんなジョンに、ポールは、「ゲッ ト・バック」(戻って)と叫ぶ。
しかしこの頃、もうビートルズはグループとしては終っていた。ジョンとポールという二人には、別れの時が迫っ ていた。流れた時計の針を元に戻すことは誰でもできないのだ、人は皆、ジョンとポールのように出会い、そして別れてゆくものなのだ。その切なさが、このア ルバムにはある。発売当初、このアルバムの評判は、「散漫な印象のアルバム」というもので、けっして芳しいものではなかった。しかし今、改めて聴いてみる と、切ないほど、無常を感じさせる音楽だと改めて感じた。
、再び北の大空に向けて飛翔する白鳥のように、音楽というものも、出来上がった瞬間から、次元を超えて、成長 するものかもしれないとさえ思う。聴き手の感性もまた違って来ているということだろうか。
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自由なイメージを持って、このアルバム「レット・イット・ビー」を聴いていると、これまでの評価とはまったく別の印 象が沸き上がってくる。このアルバムのセッションが行われたのは、1969年1月のことだ。その模様は映画にもなっているから観た人も多いはずだ。もう 30年以上も前のことになる。イメージで言えば、このアルバム「レット・イット・ビー」は、少年ポールの先輩ジョンに対する失恋のストーリーのようなもの にある。
何を言うかと思う人もいるだろう。まあ、佐藤の私見である。既にビートルズのメンバーのうちふたり(ジョンと ジョージ)は、この世の人ではない。もうビートルズは存在しないのだ。聴くたびにある種の郷愁の入り交じったような寂しさが漂う。そしたらふと歌が湧い た。
僕らの青春「レット・イット・ビー」を聴けばコーヒーカップの湯気秋空に消ゆ
1969年、「レット・イット・ビー」の時代、ビートルズは、まさに世界の脅威のヒーローだった。かのプレス リーも、自分の人気を軽く足蹴にしたジョンとビートルズが大嫌いだった。それはそうだだろう。ジョンのアイロニー(皮肉)とナーブ(生意気)な発言は、プ レスリーだけでなく、世の大人たちを刺激した。「俺たちは、若者の間ではキリストよりも知られている」(1966)という発言がった。そこから「若者」が 外れて、マスコミに流れた。「俺たちはキリストよりも有名だ」ヨーロッパやアメリカの敬虔なキリスト信者たちが、怒りに震えた。たちまちレコードの不買運 動が起き、彼らのアルバムは、ブルドーザーで、ぺしゃんこにされた。
それでもジョンは、まったく意に介さなかった。彼は反抗的な若者のカリスマ的存在となり、常にその発言が注目 されるようになった。そんな彼らを見て、ミックジャガーらのローリング・ストーンズが、過激な装いで、ミュージックシーンに登場した。彼らは、ビートルズ を常に意識しながら、自らの世界を築いていった。ミックとキースが書いたストリートで暴れる若者を讃美した文字通りの歌「ストリート・ファイティングマ ン」とジョンの「レボリューション」が比較された。二人の違いは、暴力に対する考え方だ。ジョンは、まず革命叫ぶより、己の内面を変えろと叫んだ。当時、 ジョンとビートルズは日和見で、ローリング・ストーンズはよりラジカルと言われた。しかしどうだ。その後の世界の流れをみれば、ジョンの平和の思想が、大 きな平和思想の潮流になっている。どちらが、深く現実を見据えていたか。未来を見据えていたか。もはや言わずもがなである。
当時、ジョンは、ビートルズというものの価値と時代が終わったことを知っていた。一方、ポールは違った。彼は ビートルズを守ろうと必死になった。だからこのアルバム作成に当たっては、ジョンに戻って欲しいというメッセージを込めて「ゲットバック」を書いた。まさ にジョンに対するメッセージだ。俺たちが作ったビートルズは不滅だ。このままビートルズとしてやろうよ。彼はそう兄貴分のジョンに言いたかった。ポールに は、ジョンの発するオーラが必要だった。しかしジョンには、ポールは昔の彼女のような存在でしかなかった。ビートルズの音楽的霊感の源泉は、残酷だが、常 にジョンの魂の中にあった。そのジョンの魂を失った時、ポールはただの人になり、ビートルズはグループとして、存在しえなくなった。
ジョンは、既にポールとはまったく別の方角を見ていた。アルバム作成の年、1969年11月、ジョンは、ベト ナム戦争が泥沼化し、イギリス政府が、アメリカ支援を明確にしている理由で、エリザベス女王から貰った勲章を返却した。これは政治的な抗議の姿勢を明らか にするための行為だった。ジョンは、ベトナム戦争に反対し、世界平和を実現したいと思った。だから世界中で蔓延する暴力革命の肯定論に関しては一定の線を 引いた。「君たちは革命革命と言うけれど、そのようなものでは、世の中は変わらないよ」と「レボリューション」(1968)という歌で、若者にメッセージ を発した。イメージによる平和。まず人が心の中で、平和を念ずることが大切だと説いた。イメージが、世の中を変える第一歩であることをジョンは、世界中に 伝えたかった。しかしアメリカのCIAは、ジョンを危険思想の「アカ」と判断をして、その行動を常に監視した。彼らは間違っていた。まったくジョンを知ら なかった。彼は「革命家ゲバラ」ではなく、「平和主義者ジョン・レノン」だった。ジョンの思いは、数年の後、「イマジン」(1971)という名曲として結 実した。
この頃を振り返り、ジョンは、ポールの書く作品について、このように表したことがある。「あの頃のポールに は、差し迫った霊感に拍車がかかっていた。」それは、自分の霊感の源泉としてのジョンが離れて行けば、自分はどうなってしまうのか。せっかく手にしたビー トルズという名声はどうなってしなうのか。という不安に他ならなかった。だからこのアルバムには、芸術家としてのポールの最後の輝きがある。名曲「ヘイ ジュード」(1968)も、父親のジョン・レノンが離婚して寂しがっているジョンの息子ジュリアンに対する慰めの歌と言われているが、結局は、ジョンに対 するメッセージソングだった。
あなたは、トニ·ゴンザーガによって一つです
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「ゲット・バック」という曲は、私にとって、以前から、つまらない曲にしか聞こえない。その考えは今も昔も変わらな い。ビートルズの歌としては、詩も曲もビートルズのレベルには達していない。コーラスも薄っぺらだ。「ゲットバック」(戻れ)という言葉の響きもけっして 品がいいものではない。
後で、ジョンはこの曲について、金儲けのためのレコードで「レディ・マドンナ」と焼き直しと断じていた。また セッションの時、「ゲット・バック」と歌う時には、ヨーコの方を見ていたということで、ジョンは、ヨーコに、「前のところへ戻れ」というメッセージを込め ていたと語ったこともある。要は、ビートルズを壊さないでくれ。ヨーコ、君は君の居場所に戻れ、という訳だ。
私は、「ゲット・バック」は、紛れもなくジョンに対するポールのメッセージだと思う。
特に、二番の歌詞が面白い。
「かわいいロレッタは、自分が女だと思っていた。しかし彼女はもうひとりの男だった。・・・」
これは一番の「ジョ、ジョは自分が一匹狼と思っていた。しかし長続きしないのは分かっていた」に対になってい る。
私は「ジョ、ジョ」は、ジョンを指し、ロレッタは、ポール自身を指していると考える。
それに対して、ジョンは「デイッグ・ア・ポニー」でこのように歌う。
「ボクはポニーを賞賛する。そうさ。君は自分が思うことをなんだって選べる。・・・。ボクは好きに運転をす る。君はどこにだって、行きたいところにゆけばいい。何だって君の思い通りにすればいい。」
ポニーとは、ポールのことだろう。ジョンは「ゲット・バック」という曲に反応して、この歌を作ったに違いな い。
この歌にジョンが込めた意味は、ことかもしれない。
「ポールよ。自分の好きなようにやればいい。ビートルズだって、何だって、君が思うようにね。ボクにはボクの道があ る。ボクは別の風を感じている。(だからもうビートルズは離れたい)」
このアルバムの4曲目に、名曲の誉れの高い曲がある。
「ザ・ロング・アンド・ワインデイング・ロード」だ。
日本語にすれば、「長く曲がりくねったひとつの道」とでもなろうか。
歌詞を私なりに訳せばこんな風になる。
長く曲がりくねったひとつの道がある。
君の家のドアに続く。
けっして消えることない昔に見たことのある道。
いつも私をここに導いてくれる。
道よ。どうか私を君のドアに導いてくれ。激しく風の吹きすさぶ夜。
道は雨に洗い流され。
雨は涙の水たまりを遺していった。
一日私は泣き通しだった。
何故、君は私をここに置き去りにしたのだ。
私に生きる術を教えて欲しい。
幾たびも私はひとりぼっちで、
そのたびに私は涙した。
でも君には私の思いは分からない。
幾度も私が試してきたこのの道(ビートルズ)のことを。しかしそれでもまだこの道(ビートルズ)が戻れと私を導く。
この長く曲がりくねった道へ。
君はここへ私を置き去りにした。
どうか私をここで待たせたままにしないで。
君のドアへ導いてくれ。
おそらくこの歌は、ポールの最高傑作のひとつだろう。この歌には、大切なものを失う不安と恐怖と孤独の思いが滲み出 ている。それはジョンとかポールとかビートルズなど、まったく関係なく、人生の普遍的な意味での「道」の概念に通じている。また単にポールという男が、大 切な友(ジョン)を失うという以上に、ポール・マッカートニーというひとりの音楽的天才から、創造の神が、薄情にも彼を見放し、天高く飛び去ってしまう悲 しい情景が脳裏に浮かんでくるのだ・・・。
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このアルバムの8曲目に、ジョンの「ドント・レット・ミー・ダウン」が入っている。かつて1969年4月にシングル 盤で発売された「ゲット・バック」のB面の曲で、アルバムのオリジナルには入っていなかった曲だ。
ジョンらしい、魂の奥から絞り出すようなバラードが聴ける。映画では、歌われていたが、このアルバムの価値を 上げるのに一役買っている。ブルースがベースになっている曲だから、歌詞はいたってシンプルだ。
「ドント・レット・ミー・ダウン」(落ち込ませないで)と繰り返し、最後に、「初めて恋というものをしてい る。分かるかい。この恋に終わりはない。それは永遠に終わりまで続く恋。それはけっして過ぎることなのない恋。・・・だからボクを落ち込ませない で・・・」と叫ぶ。
ジョンにとって、オノ・ヨーコという女性は、詩人にとっての創造の霊感をもたらすニンフ(妖精)のような存在 だった。それまで、ほとんど10年という歳月を、ロックンロール一筋で送ってきたジョンにとって、ヨーコは、世界に向かって開かれた窓のような存在だっ た。曲がりなりにも、奇跡のようなビートルズの大成功は、ジョン・レノンという人間を、ビートルズという怪物のヌイグルミの中に押し込めた。どこに行くに も、警備や若い女性ファンの熱狂が聞こえ、心までもがもみくちゃにされた。
どこへ行っても、ファンは「ビートルズのジョン」という目でジョンを特別視する。しかしヨーコは、いたって普 通だった。
「あなたがジョン・レノン?そうなの?このオブジェを見てご覧なさい」
ヨーコは、自分の個展(「未完成の絵画とオブジェ」)の会場に来たジョンに、ひとりの人間として、ごく当たり 前に応対した。ヨーコにしてみれば、さあ、あなたに私の作品がどんな風に見える、そんな突き放した態度だった。目があった瞬間、ヨーコは、小さな紙切れを ジョンに渡した。そこには「まず息をしなさい」と書いてある。世間知らずなジョンは、とても緊張していた。仕方なく言われた通りにした。いったい何だって んだ?この女性は?と一瞬、思った。ヨーコは、この頃、既に離婚をして子供もいたが、黒い瞳の魅力的な女性だった。もしかするとジョンは、はじめから、原 始神母(グレートマザー)のような雰囲気あるヨーコに精神的に圧倒されたのかもしれない。
ジョンが、会場の画廊に入ると。その中央には白い台があり、その天井には小さな絵が貼ってあった。そして上か ら、この絵を覗けとでもいうように虫めがねがぶらさがてある。ジョンが台に上がりその虫めがねを覗く。すると、ただ小さい字がみえる。そこにはただ「イエ ス」と書いてあった。はて?間を置いて、ジョンは、クスッと吹き出した。
「ノー」でなく「イエス」という肯定的なメッセージ・・・。ジョンは、後で、ここに否定的なメッセージが書か れていたら、すぐに会場を出てきただろう、と答えている。ジョンは、ヨーコの中に自分と同じものが流れていることを感じた。これがふたりの出会いだった。 赤い見えない運命の糸が、ふたりの間には張られていたのだろう。
ジョンは、ヨーコを通して世界の真実を観た。戦争がいつ果てることもなく続いていることを論じ、どうしたら平 和が訪れるのかを思った。まず思うこと。「イメージの力」を信じ、まず平和に人々が暮らしている情景を想像すること。これははじめヨーコの芸術のコンセプ トだった。
ふたりの愛は、ふたりの間の関係を超えて、世界の人々が、結ばれる次元まで飛翔した。そんなジョンにとって、 世界中の熱狂的なファンのまえで、猿回しのサルの役割を演じることは、もはや苦痛以外の何ものでもなかった。すでにジョンの魂は、ビートルズの中にはな かった。「ドント・レット・ミー・ダウン」がシンプルな歌でありながら、心地よく聴き手の魂を揺すぶるのは、ヨーコとの恋に対する確信のようなものがある からだ。この歌は、ジョンが、ひとりのミュージシャンから、大芸術家に変身を遂げる過程で生み出された恋の歌なのだ。
誰がための言葉は何か歌った?
5 ジョンの決別宣言としての「アクロス・ザ・ユニバース
今日(2003年12月8日)は、ジョンの23年回目の命日に当たる。
アクロス・ザ・ユニバースは、あらゆるジョン・レノンの作品の中でも、私がもっとも好きな曲のひとつである。何故い いか。その理由は分からないが、おそらくジョンの無意識がこの曲に介在しているために、言葉などどうでもよくて、脳のどっかの部分を刺激する何かを持って いるためだろう。この曲の価値は、ジョンさえも分からないかもしれないとさえ思う。当初、この曲に対して、ジョンはもの凄い自信を持っていたフシがある。 しかし「ラストインタビュー」頃になると、「詩」について読むに耐えられると言いながら、以前ほど、この曲に対する思い入れはなくなったように見える。
歌詞を訳せばこんな感じになる。
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言葉たちは、長雨が紙コップの中へ降り注ぐように、飛び散っては消える
それは滑り、且つ過ぎ、大宇宙を遙かに越えて、何処へ消え去る
悲しみは涙のプールとなり、歓びは波となり、私の目覚めた心通り過ぎてようとする
悲喜こもごもの言葉の雨は、私を捉え、そして私に口づけをくれる
たとえJai(?)でも、導師(グル)でも、悪魔でも、呪文でも
(Jai guru deva om)
私の世界を変えることなどできないのだ。
(Nothing's gonna change my world)2
壊れた光りのイメージが、百万の瞳となって私の前で踊る
それが私を呼び止め、大宇宙を越えて「行こう・行こう」と誘いかけるのだ
すると私の思いは、郵便箱の中に吹く風のように落ち着きなくふらふらと彷徨い
イメージが創り上げる「大宇宙の越える道」とやらに盲目的にのめり込むでしまう
たとえJai(?)でも、導師(グル)でも、悪魔でも、呪文でも
私の世界を変えることなどできないのだ。
3
人生の影たちの笑い声はサウンドとなり、
私の開かれた耳穴を通して鳴り響いている
それは私を興奮させ、私の心をそそるのだ
限界もなき不滅の愛が
百万の太陽をちりばめたように私の周囲で輝いている
それが大宇宙を越えて、どんどん行こうと私を呼ぶのだ
たとえJai(?)でも、導師(グル)でも、悪魔でも、呪文でも
私の世界を変えることなどできないのだ。
この曲は、1968年2月4日に録音された。ジョンはジョージと共に、これから10日ほど後にインド旅行に出かけ た。あるインドの導師に会うためだ。私はこの歌から、ジョンという人間の強靱な自己というものを感じる。たとえ導師だろうが、悪魔だろうが、私の思いを変 えることはできないと歌っている。かつて私は「Jai guru deva om」(ジェイ・グル・デーヴァ・オーム)という呪文のような歌詞の意味をずっと考え続けたことがあった。その中で、「Jai」のだけが分からなかった。 「Jesus」(ジーザス)かとも思った。サンスクリット語の事典やネパール語の辞書も引いてみた。しかし決定的なことは分からなかった。ジョンは軽い気 持ちで、音の響きが良いので自分が子供の頃から信じて来たジーザス・キリストを「Jai」と呪文化したものかもしれない。
この曲の中で、ジョンは、2度「オープン」(開かれた)という言葉を使っている。一度は「開かれた心」とし て、二度目は「開かれた耳」である。どうしてジョンの心が、開いたかといえば、それはジョン自身が、オノ・ヨーコとの出会いによって、あらゆるものから価 値観から解放され自由になったとジョンが感じているからに他ならない。真実の愛が、ジョンの心の眼を開かせた。
「アクロス・ザ・ユニバース」は、すでにビートルズから心を移したジョンが、人生において、初めて掴みつつ あった愛の確信へのオマージュ(献辞)であった。
この思いは、2年後(1970)に発表されたアルバム「ジョン・レノン」(邦題「ジョンの魂」)の中の「ガッ ド」(神)としてあるいは彼の最高傑作といわれるアルバム「イマジン」(1971)として結実することになる。
「ゴッド」でジョンは、こんな衝撃的な歌詞で歌い始める。
God is a concept (神はコンセプト(概念)に過ぎない)
By which we measure (私たちはそれによって計るのだ)
Our pain (自分たちの苦悩というものを)そしてジョンは、次のような一般的には、権威とかカリスマとか言われるような概念や人物をも信じないと歌 う。
そこには、聖書もキリストもブッダもヨガもマントラ(呪文)もヒトラーもケネディもキング牧師も毛沢東もエルビ ス・プレスリーもボブ・デュランもビートルズも入っている。
そして最後にジョンはこのように続ける。I just believe in me (私は自己を信じる)
Yoko and me (ヨーコと自分を)
And that's reality (それこそが現実だから)The dream is over (夢は終わった)
What can I say? (何と言おう)
The dream is over (夢は終わったのだ)
Yesterday (イエスタディのように・・・)
I was the Dreamweaver (私は夢を紡ぐ人間だった)
But now I'm reborn (しかし今私は生まれ変わったのだ)
I was the Walrus (かつて私はセイウチ=トドのようだった)
But now I'm John (しかし今私はジョン・レノンそのものだ)
And so dear friends (だから親愛なる友よ)
You'll just have to carry on (君たちも過去のことはどっかに移すべきだ)
The dream is over (夢は終わったのだ・・・)
ジョンは、「アクロス・ザ・ユニバース」を、眠れぬ夜に作ったと述懐している。ジョンの無意識は、1968年の時点 で、ビートルズの崩壊を確信していた。人の夢を紡ぎながら、芸を見せるセイウチの自己ではなく、人間ジョン・レノンになりたかったのだ。
ジョンにとって、確信となるものは、ヨーコとの生活だった。それはジョンの魂を根本から目覚めさせた。それに しても、「アクロス・ユニバース」のメロディは美しい。ジョンの無意識が、この曲を書かせたのだ。人間、誰もが、何らの確信も持てずに日々の雑事に追われ るように過ごしている。この曲は、そんな人の心を励まし、頑張れと言っているようにも聞こえる。
ジョンの40年という短い生涯の中で、華やかな「ビートルズ」という栄光を捨て去って、別の世界に飛び込むこ とは、当のビートルズの仲間たちあるいは世界中にいたビートルズファン、ビートルズで莫大な儲けをしたレコード会社など多くの人をがっかりさせた。しかし ジョン・レノンは、ヨーコとの愛を、独り占めすることなく、反戦平和活動やそのために多くの人々の心に残るた数多くの歌を創造した。ジョンは、単なる歌う 旅芸人(セイウチ)にはなりたくなかった。どこにいるどんな人物の言葉にも振り回されることのない確固とした信念を持ちたかった。歌手である前に、ジョン は一人の人間として、正しい思考を持つ人物になりたかったのだ。世の人々(かつてのビートルズファンも含め)は、「イマジン」(1971)を聴いた時、 ジョンの目指したことを初めて理解することができた。こうしてジョン・レノンは、20世紀を代表する芸術家になったのである。
6 レット・イット・ビー」に込められたポールの 祈り
彼らが聞きたいものEMを伝える
さて、2003年に新たに発売された「「レット・イット・ビー・ネイキッド」も最後の曲となった。ポールの最 高傑作「レット・イット・ビー」について書こう。1968年のポールは、まるで「ハムレット」そのものだった。どうしたらいいのか、自分の歩むべき方向を 見失い掛けていた。ジョンがビートルズを去る、そのことばかりが彼の脳裏に黒雲のようにのし掛かっていた。しかも、この時、ビートルズというチームには、 それまで、ビートルズのマネージメントを一手に引き受けてきた敏腕マネージャーのブライアン・エプスタインは既にこの世の人ではなくなっていた。(彼は 1967年8月に急死していた。)この衝撃はビートルズというチームの将来に決定的な影響を与えた。ジョンは、後に「エプスタインの死でビートルズは終 わった」と語っている。
にも関わらず、彼らは「アップル」という会社を設立した。この会社は、ビートルズというブランドを中心にし て、音楽や映画から化粧品、果てはエレクトロニクスまでを視野に入れた誇大妄想的な計画だった
ポールは、ビートルズというチームの中で、自己のアイデンティティを作ってきた。本当の兄のようにジョンを慕 い尊敬し、音楽的な素養を得るために、人一倍の努力をした。ピアノでも、ギターでも、眠る間も惜しむようにして、今日の成功を収めた。オリジナル曲もジョ ンと共に作りあげて、現代のモーツァルトやベートーベンのような作曲家という評判まで、得てきたのである。
ポールには当然、これからがビートルズというものの本当の夢の実現が迫っていると感じていた。しかしブライア ン・エプスタインの死後、急速に、4人の志向は違ってきた。その中でも、ジョン・レノンの変化は急激だった。
もはや「アップル」の経営も思うにならない状況になり、その苛立ちから、この「レット・イット・ビー」の製作 過程において、ポールは、リンゴやジョージと言い争いを起こしたりしている。まさにポールは20世紀のハムレットになっていた。
映画「レット・イット・ビー」を観るとその時のポールが、童顔に不釣り合いな黒々としてヒゲをたくわえて20 世紀のハムレットよろしく登場する。
そして「レット・イット・ビー」を歌うのである。
「Let It Be」を日本語にするとどうなるのか。今、大体が「なすがままに」とか「あるがままに」とか、訳されているようだが、この訳は、シェークスピアの「ハム レット」の「To be Or not to be」と同じく、考えれば考えるほど難しい。福田恆存訳では、確か「生か死か」(それが問題だ)だった。また小田島雄志は、「このままでいいのか?いけな いのか?」と訳していたと思う。
もちろん「Let」は、そのままでは意味をなさない。後にくる動詞を受けてはじめて意味がわかる。ところがそ の後に来るのは「IT」と「 BE」である。この三つの言葉とも、一つでは意味のなさない単語ばかりである。意味のなさない単語が三つならんだ。これが「Let It Be Me」となったら問題はない。「私がやります」となる。おそらく、ポールは、ワザと意味の曖昧になるように、この三つの単語を並べたのである。一種の呪文 である。
確かに「Be」には、「存在」という意味もあるから、「このままでいよう」という訳もできる。またこれを言葉 遊びと考えるならば、「BE」は「BEATLES」の「BE」となり、「ビートルズをこのままで」という暗喩ともとれる。とすると「レット・イット・ ビー」というタイトルはポール・マッカートニーの願掛けかもしれない。つまりポールがこの短い呪文のようなフレーズに込めた真意は、「ジョンよ。ボクの真 意をくみ取ってくれ。ビートルズをこのまま維持しようよ」ということになると思うが、どうだろう。だが、あえてこの「レット・イット・ビー」は訳さない方 が良いと思う。その事の意味は後で説明する。
「レット・イット・ビー」は、素晴らしい名曲だ。ポールが言外に含んだ意味があるにせよ、この歌は、ビートル ズのゴタゴタ何かを遙かに越えてシンプルな祈りの歌となっている。
1
When I find myself in times of trouble
(ボクは見つけた。苦悩に打ちひしがれている時)
Mother Mary comes to me
(聖なるマリアさまがボクに近づいてくるのを)
Speaking words of wisdom, let it be.
(「レット・イット・ビー」と智慧の言葉を話しながら)
And in my hour of darkness
(暗闇に居る時にも)
She is standing right in front of me
(マリアさまはボクの前に光りとなって立ち現れる)
Speaking words of wisdom, let it be.
(「レット・イット・ビー」と智慧ある言葉を話しながら)
Let it be, let it be.
(「レット・イット・ビー」、「レット・イット・ビー」)
Whisper words of wisdom, let it be.
(「レット・イット・ビー」」と智慧ある言葉をささやきながら)2
And when the broken hearted people
(心の傷ついた人々が)
Living in the world agree,
(この世界で心をひとつにして生きる時)
There will be an answer, let it be.
(「レット・イット・ビー」の答えは見つかるはず)
For though they may be parted there is
(たとえ、彼らが離ればなれになったとしても)
Still a chance that they will see
(再会のチャンスはまだ残っている)
There will be an answer, let it be.
(「レット・イット・ビー」の答えは見つかるはず)
Let it be, let it be. Yeah
(「レット・イット・ビー」、「レット・イット・ビー」)
There will be an answer, let it be.
(「レット・イット・ビー」の答えは見つかるはず)
3
And when the night is cloudy,
(曇った夜も)
There is still a light that shines on me,
(マリアさまの光はボクを照らしてくれる)
Shine on until tomorrow, let it be.
(「レット・イット・ビー」と明日までも光をくれる)
I wake up to the sound of music
(音楽の調べに目を覚ますと)
Mother Mary comes to me
(聖なるマリアさまがボクに近づいてきた)
Speaking words of wisdom, let it be.
(「レット・イット・ビー」と智慧の言葉を話しながら)
Let it be, let it be.
(「レット・イット・ビー」、「レット・イット・ビー」)
There will be an answer, let it be.
(「レット・イット・ビー」の答えは見つかるはず)
Let it be, let it be,
(「レット・イット・ビー」、「レット・イット・ビー」)
Whisper words of wisdom, let it be.
(「レット・イット・ビー」」と智慧ある言葉をささやきながら)
この歌を味わいながら、私はふと、観音経を思い出した。法華経の巻二五にある経だが、日本でもっとも人気のある経典 である。内容はいたって単純。何か苦境にある時、観音さまを唱えれば、直ちに観音様は、その声をお聞きになって、その者を救いに来てくださるというありが たい経典である。その中には、多くの陀羅尼(だらに)が含まれている。陀羅尼とは、真言のことであり、呪文のことである。呪文は訳さないものである。意味 を知っていようが、いまいが、その音のままに読むことに意味がある。
例えば、これは伝説であろうが、あの源義経が、武蔵坊弁慶や静を伴って、西海に逃れようとした時、須磨の大物 浦の夜の海には、壇ノ浦の戦によって命を落とした平家の亡霊たちが目の前に立ちふさがった。その時、弁慶が数珠を激しく揉んで「真言」を唱えたのである。 謡曲、船弁慶の有名な場面だが、これが真言である。だから「レット・イット・ビー」も、無理に訳さず、そのままの方が、逆に意味が生まれる。これは、ジョ ンのアクロス・ユニバース」の(Jai guru deva om) も一緒である。ポールは、「レット・イット・ビー」と真言を唱えながら、きっと「ジョンよ戻れ、ビートルズよ永遠なれ」、とマリアさまに祈ったのであろ う。
7 ビートルズとは何だったのか?!
ジョンが、ビートルズ解散後に創った名曲「ラブ」を聴きながら、これを書いている。さて、ビートルズとは、いったい何だったのか。イギリスの田舎町リバ プールに生まれた若者4人組が、何故あんなにも世界中の若者を熱狂させたのか。その答えは未だかって謎のままである。
彼らが世界の音楽シーンの中心地アメリカに登場したのは、第二次世界大戦終結(1945)から18年後(1963)のことだった。もしかするとビートルズ とは、大戦による人々の傷心を見かねた神が使わした音楽の使者だったのかもしれない。音楽シーンに現れるや否や、「ビートル・マニア」(熱狂的ビートルズ ファンの意味)という言葉が使われるほど、ビートルズは圧倒的な人気を獲得した。その人気には、あの大スターエルビス・プレスリーも嫉妬するほどだった。
彼らの強みは、何と言っても、ジョン・レノンとポール・マッカートニーというソング・ライターが存在することだった。彼らの作り出す音楽のベースは、もち ろんロックンロールだ。しかしそこにはブリティッシュ・フォークの土臭い香りがあった。しかもどこかで聴いたかのような音楽でありながら、よく聴いてみれ ば、どこでも聴いていない新鮮さがあった。それはまるで、あの神童モーツアルトが天上の音楽を書き取ったのではないかと言われた淀みないメロディに似てい た。
明らかに、レノン・マッカートニーのコンビはポップ音楽を芸術の域にまで高めた。初めは眉をしかめていた大人たちも、その二人の創造性の高さに驚きの声を 上げ、賞賛をするようになった。一般に、二人の分担は、作詞はジョンで作曲はポールと言われてきたが、それは間違いだ。二人は時には、二人でギターをかき 鳴らして、共作をしたりしたものの、その多くは競うようにして別々に作詩作曲したものがほとんどだった。二人は、この時期作ったものをすべて「レノン・ マッカートニー」のクレジットにするという協定を結んでいたのである。例えば、「イン・マイ・ライフ」や「ヘルプ」や「ノルウェーの森」(三曲とも 1965発表)はジョンの曲であり、「デー・トリッパー」や「イエスタデー」(この2曲は1965作)「フール・オン・ザ・ヒル」(1967)やはポール が一人で作詞作曲したものだった。また「ア・デー・イン・ザ・ライフ」(1967)のように、ジョンが作った曲の後に、ポールが小節を換えて、曲を付け加 え不思議魅力を醸し出す曲となったものもある。「ミッシャル」(1965)では、ポールが作った曲に、ジョンがサビの部分を提供している例もある。
二人の違いは、言葉に対する感性かもしれない。ジョンの言葉に対する鋭い感性は詩人そのものだ。まったく新聞に載っているような日常に捨てられるような言 葉に意味を見つけて、詩に変えてしまう所がある。ジョンの曲には、「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイアモンド」(1967:ダイアモンドと一緒 に空にいるルーシーとしか訳せない)のように意味不明な歌がある。これを見て、音楽評論家たちは、この歌の頭文字をとって、麻薬の「LSD」のことを歌っ た歌だと解釈した。その為に、この曲は発表後、多くのラジオ曲で放送禁止処分となった。それほどの影響力を、ビートルズの一挙手一投足は持っていた。確か に彼らはある時期、麻薬を常習していたことがあるとされる。麻薬でラリったジョンがギター片手に作った歌だという訳だ。しかしそれは間違いであった。後に ジョンは、この歌が生まれた経緯を、長男のジュリアンが学校で書いた奇妙な絵について聞くと「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウイズ・ダイアモンド」と答え たので、書いたと言っている。他にも、「パピネス・イズ・ザ・ウォームガン」(幸福は撃ったばかりの拳銃という意味不明なタイトル)があるが、これはある 「ガン・マガジン」の表紙の言葉を見て書いた曲と言われている。
かつて、ボブ・デュランのストレートな社会批判の歌詞が持て囃されたことが多かった。しかし今ジョンの書いた詩を、改めて味わって見る時、詩人としての ジョンの才能には、驚かされる。非常にシンプルで、使い古された言葉をモチーフとして用いながら、そこにその言葉自体のもつ普遍的な力のようなものを引き 出す力は並はずれている。しかも無駄がない。ポールはジョンの紡ぎ出す言葉の世界にコンプレックスを持っていたと思われる。どうしてあんな言葉がジョンの 口から出て歌になってしまうのだろう。そのように考えたはずだ。しかし音楽の神様は、ポールにだって人並み外れた才能を与えた。ポールの紡ぎ出す美しいメ ロディラインは、絶品だ。例えば「イエスタディ」だが、ジョンは、この名曲について、「まったくポールの作品。ある日どっかから持ってきた」と答えてい る。このように20世紀最高のソングライターとしての「レノン・マッカートニー」のコンビは、まったく個性の違う二人の天才の才能にぶつかり合いから生ま れた。それは奇跡そのものだったと表現してもあながち嘘にはならない。
ビートルズにおいて、ジョンはビートルズの太陽であり、ポールは月であった。もちろんこれには異論もあるだろう。太陽は、自分で輝く。月は太陽の光を借り て光る。ジョンという強烈な個性が中心あって全体としてビートルズは世界の中心に輝く太陽そのものだった。だから太陽のジョンがビートルズを抜けた瞬間 に、ビートルズは輝くことを止めたのだ。
「レット・イット・ビー」はビートルズという太陽の最後の輝きだった。この時既にジョンは、まったく「ビートルズ」に興味を失っていて、「別々に行動し て、たまにビートルズでやればいいさ」と軽く考えていた。しかしポールには「ビートルズ」がしかなかった。ビートルズがすべてだった。だから何とか、 「ジョン」を元のポジションに戻したかった。そのポールのせっぱ詰まった心が、名曲「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」や「レット・イット・ ビー」を誕生させた。その切なく甘いメロディは、鶴の恩返しの物語のように己の大切な羽を抜いて紡ぎ出されたもののように悲しい。「レット・イット・ ビー」はまさにポールの心の叫びのようにも響いてくる。
その後、ビートルズは別れ別れとなり、レノン・マッカートニーのコンビが、復活することはなかった。ある時、ジョンが、ニューヨークに移り、主夫(ハウス ハズバンド)宣言をして、ヨーコとの間に出来た次男「ショーン」のお守りや掃除をしている所に、ポールがギターを持ってやってきた。
ポールは、以前のようにギターをかき鳴らしながら、ジョンと歌が作りたかった。しかしジョンは冷たく言い放った。「帰ってくれ。俺は今子育てで忙しいの だ。」ポールは言葉を失って寂しく帰って行った。
人の一生は死への過程である。ビートルズの誕生と解散は、人の一生に似ている。華やいで青春の一時は瞬く間に過ぎて、それぞれがライフワークを見つけ出そ うとした。ジョン・レノンにとっての、ライフワークは、世界に「イマジン」のメッセージを伝え、慢性的に起こっている戦争にイメージの力をもって平和を訴 えることだった。ポールも一時期、反戦平和の運動をしたことはある。ジョージ・ハリソンもバングラディッシュの飢餓を救おうと世界的なコンサート活動を 行ったことがある。しかしあえて厳しいことを言えば、ジョン以外「ビートルズ」という「大看板」を越えて、ライフワークを見つけたメンバーはいない。
ポールには、ジョンが必要だった。ジョンという太陽が必要だった。こうして創造の神は、ポールの肩から飛び去ってしまった。ポールにその後、「レット・ イットビー」以降見るべき傑作はない。悲しいことだが現実だ。
ビートルズは、20世紀の若者が憧れる成功の象徴だった。初め彼らは、売り出すために様々な衣裳が施されたが、徐々に彼らは自己の個性を強く主張するよう になった。彼らは決して作られたヒーローではない。彼らを憧れ、無数の若者がビートルズを越えようとしたが、この40年間彼らを越えるヒーローは現れな かった。これからもビートルズを超えるグループは、おそらく現れないであろう。たった213曲(公式録音)の曲を残してビートルズは黄金のカブトムシと なって天に飛翔したのだ。了
2003.11.18
2003.12.11 Hsato
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