2012年4月29日日曜日


質問日時:2012/3/6 1:12:55

質問した人:luv1122famさん

解決日時:2012/3/8 1:48:05

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K-POPにお詳しい方、
回答宜しくお願いいたします。

2012年4月28日土曜日


ミュージシャンの墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

ロック&ポップス・ミュージシャンコーナー

              44名 ★写真館の総目次


★ジョン・レノン/John Winston Ono Lennon 1940.10.9-1980.12.8 (NY、ダコタ・ハウス 40歳)2000
Ashes given to family or friend



ジョンの墓は全世界の墓マイラーたちが血まなこになって探しているけど、「墓石」という形では見つかっていない。僕も自分なりに様々な文献に目を通して独自に調査してみた。その結果、妻のヨーコが家の中に骨壷を置いているのを見たという目撃情報、また"ジョンのお墓は作らない"(ファンが殺到して管理が大変な為)とヨーコが複数の人間に語ったという話と出会い、僕はまだジョンの遺灰がダコタ・ハウスの中にあると確信した。ゆえに僕はヨーコを訪ねてダコタへ行った!今思えば無謀というか、若気の至りというか、僕は夫人に直接墓の場所を尋ね、もし部屋に遺灰があるなら手を合わさせて欲しいと頼み込むつもりだった。
まずはインターホンを鳴らす為に正門をくぐってと…。「ホワット・アー・ユー・ド� ��ーイングッ!」ぐおっ!敷地に入っていくと、僕はいきなり何者かに背後から羽交い絞めにされた!振り返ると血相を変えたガードマンが。(僕)「アイ・ウォント・ミート・ヨーコ・オノ!」「アー・ユー・クレイジー!?」必死でジョンの骨の話をしたが、ズルズルと表に引き出され、チャップリンの映画よろしくお尻に足跡をつけられてしまった。

本当にヨーコに会える可能性はゼロに近いと思ってはいたものの、まさかインターホンにすらたどり着けないとは…。うむむ、このまま諦めはしない。まずはヨーコとペンフレンドになって、それから…それから…。
(とりあえず、ダコタそのものをジョンの墓とみなし、心眼でジョンの骨壷をイメージしながら、彼とのソウルトークに入った)

★そしてストロベリー・フィールズへ!

実は遺灰の行方に関してもうひとつ説がある。ダコタ・ハウスはセントラル・パークに隣接している。ジョンの死後、同パーク内に作られた小広場"ストロベリー・フィールズ"にヨーコが遺灰を撒いたというのだ。この説をもとに、ビートルズ・ファンの間ではこの小広場の中心にある『イマジン』のメモリアルを、ジョンの墓と見 なす者も多い。



傑作『イマジン』はわずか3分間の短い曲だ。しかし、テロ事件後に米国で放送自粛曲になったほど、平和・反戦の強烈なメッセージを聴く者に与える。ジョンはこの曲をベトナム戦争中に発表して、翌年、合衆国当局から国外退去命令を受けた。ジョンは歌の中で何度も何度もイマジン=想像することの大切さを訴えている。想像する力が働かないとき、考えることを放棄したとき、人は戦争を受け入れてしまうのかも。
1980年12月8日、午後10時50分。暗殺犯は銃に込めた全部の弾を発砲。ジョンは全身に4発も弾丸を撃ち込まれて死んだ。

「人生は40から始まると言うが僕もそう信じている。僕はこの通り元気だしこんなに胸をときめかせているんだ『ワオ!次は何が始まるんだ!』っていう気分だよ」(暗殺の2ヶ月前、プレイボ� �イ誌のインタビューにて)
※「人々が本気で平和を求めれば、それを手にすることが出来ると心から信じている。問題はそれが可能だってことを彼らが知らないことだ」(J・レノン)


    
※ジョンほど容姿がどんどん激変したミュージシャンはいないだろう。しかも左端から4枚目まで、10年ちょいしか経ってない!
   『イマジン』
  Imagine there's no heaven 
  It's easy if you try 
  No hell below us 
  Above us only sky 
  Imagine all the people 
  Living for today... 
 
   想像してごらん 天国なんかないって
   試してみれば難しいことじゃないよ
   足下に地獄がないように
   天にはただ空しかないってことサ
   想像してごらん すべての人たちが
   今日という日のためだけに生きてるってことを
  Imagine there's no countries 
  It isn't hard to do 
  Nothing to kill or die for 
  And no religion too 
  Imagine all the people 
  Living life in peace... 
 
   想像してごらん 国境なんかないって
   簡単なことさ
   殺し合いのもとがなくなるってことだよ
   宗教さえもないんだ
   想像してごらん すべての人たちが
   平和に暮らしている姿を
  You may say I'm a dreamer 
  But I'm not the only one 
  I hope someday you'll join us 
  And the world will be as one 
 
   僕を夢想家と思うかも知れない 
   でも僕ひとりじゃないはずさ 
   いつの日か 君も僕らに加われば 
   この世界はひとつに結ばれるんだ 
 
  Imagine no possessions 
  I wonder if you can 
  No need for greed or hunger 
  A brotherhood of man 
  Imagine all the people 
  Sharing all the world... 
 
   想像してごらん 財産なんかないって
   これはちょっと難しいかもしれない
   欲張りや飢えの必要もなく 
   人はみな兄弟なのさ 
   想像してごらん 僕らみんなで
   世界のすべてを分かち合っているって
  You may say I'm a dreamer 
  But I'm not the only one 
  I hope someday you'll join us 
  And the world will be as one 
 
   僕を夢想家と思うかも知れない 
   だけど僕ひとりじゃないはずさ 
   いつの日か 君も僕らに加われば 
   この世界はひとつに結ばれるんだ 
 

「たとえどんな理由があるにせよ、人を殺す理由にはならない。"汝、殺すなかれ"だ、理由なんか成り立たない」(ジョン)

★ジャニス・ジョプリン/Janis Joplin 1943.1.19-1970.10.4 (USA、マリン郡沖 27歳)2000
Cremated, Ashes scattered at sea, Ashes scattered in the Pacific Ocean



『コズミック・ブルース』
 

♪時は流れ続ける 友は去ってゆく

私は生き続ける なぜかも分からず

孤独な一日を何とかやり過ごす

 

やっとその時が来た 時は流れ続ける

25になったけどどうにもならない

子どもの頃と変わりゃしない

でも構やしない これからでも遅くない

みんな心に火が燃えている

それをつかもう 死ぬまで燃やしぬこう

 

答えを期待してはダメ

年をとっても分かりはしない

愛が増すわけじゃない

真実の愛になるわけでもない

だから今やるのよ

 

私が手を差し出す時は

あなたに 分かって欲しいの

ベイビー 私の歌を歌うわ

※この曲は映画「JANIS」の中で1970年7月(夭折する3ヶ月前)
に歌われたカナダ・トロントLIVE版が最強。


★ジミ・ヘンドリックス/Jimi Hendrix (James Marshall) 1942.11.27-1970.9.18 (USA、シアトル 27歳)2000&09
Greenwood Memorial Park, Renton, King County, Washington, USA






エレクトリックギターという楽器の可能性を極限まで引き出した人類史上最高のギタリスト。無数のアドリブを駆使してエクスタシーを音で表現した。ブルースとロックを融合し、まったく新しい音楽世界を生み出す。日本ではクラプトン、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックがロック3大ギタリストと呼ばれる一方で、ジミ・ヘンがそこに含まれていないのは、もはや彼が神であり人間ではないと思われているからだ。
本名、ジェームズ・マーシャル・ヘンドリックス。通称ジミ(Jimi)。シアトル出身。左利きゆえ右利き用のギターを逆さまにして弾いていた。父のジェームズ・アレン・ヘンドリックスは黒人の庭師。母はインディアンで祖母はチェロキー族。奔放な母はジミが幼い頃に家を出て他界。3歳から父子家庭で育つ。ギタ ーとの最初の出合いは15歳。父が中古のアコースティックギターをプレゼントした。

ジミはアマチュアバンドで腕を磨くが1961年(19歳)に自動車窃盗の罪で逮捕される。刑務所行きから逃れる為に陸軍に入隊し、除隊後はしばらくリトル・ルチャードなどのバックミュージシャンをしていた。1966年(24歳)、アニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーの勧めで渡英。「3人のギタリストが同時に演奏しているのかと思ったらジミ1人と知り驚いた。これほどの才能に誰もまだ気がついていなかったなんて、何か裏があるのではないかと不安になるほどだった」(チャス・チャンドラー)。
同年、ジミはロンドンでジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成しパリでデビュー。メンバーはノエル・レディング(ベース)とミ� �チ・ミッチェル(ドラムス)の3人。「ヘイ・ジョー」「紫のけむり」「風の中のマリー」でイギリス・チャートのNo.1を獲得し話題を集める。ジミの演奏を初めて目撃したエリック・クラプトンいわく「誰もジミーのようにギターを弾くことはできない」「廃業を考えた」。サイケデリック・ブームの代表的バンドとなったジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス。ジミの突き抜けた演奏はミュージシャン仲間にも口コミで広がり、人気絶頂だったビートルズのメンバーやストーンズの面々もライブハウスに足を運んだ。ジミはミュージシャン達に崇拝される"ミュージシャンズ・ミュージシャン"となった。

1967年(25歳)夏、ポール・マッカートニーの推薦を受けて世界初の本格的野外ロックフェスティバル、モンタレー・ポッ� ��・フェスティバル(カリフォルニア州)のステージにあがる。この凱旋公演でジミはギターを歯で弾き、背中で弾き、転げ回って弾き、挙句にギターに火を放ち、粉々に叩き割って聴衆を驚愕させ、一夜にしてロック界のスーパースターとなった。ブレイク後もツアーと並行してアルバム作りも積極的に行ない、翌年にアルバム『エレクトリック・レディランド』(1968)を発表。だがあまりの過密スケジュールに周囲の人間関係が崩壊。ノエルも脱退し、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスは2年8ヶ月で活動停止に。
1969年(26歳)、ジミは後に伝説となる大規模野外ライブ『ウッドストック・フェスティバル』(観客40万人)のトリとしてステージにあがった。この時はミッチ・ミッチェルや陸軍時代の仲間ビリー・コックス (ベース)をはじめとした6人編成の「ジプシー・サンズ&レインボウズ」として出演。ジミはエフェクターで故意に音を歪(ひず)ませてアメリカ国歌を弾き、ベトナム戦争を痛烈に批判する反戦パフォーマンスを行った。彼は大爆音で米軍によるベトナム空爆を表現し、逃げ惑う民衆の悲しみを訴えた。「ジミのアメリカ国歌演奏は1960年代最大のロック・パフォーマンスだ」(ミック・ジャガー)。

ウッドストック後、ジミはビリー・コックス、バディ・マイルス(ドラムス)と3人組バンド「バンド・オブ・ジプシーズ」を結成。彼らの演奏を聴いたジャズ界の帝王マイルス・デイビスは「俺はこういう音楽がやりたかったんだ」と絶賛した。だがドラッグ問題や音楽観の相違からわずか約3ヶ月で解散する。再びミッチ・ミ� �チェル&ビリー・コックスと組んだジミは、欧米各地でライブを行ない、NYには専用スタジオ「エレクトリック・レディ・スタジオ」を構えた。1970年8月、イギリスのワイト島フェスティバルに出演し、それから約半月後の9月18日未明、ロンドンのホテルで急死した。ドラッグで身体が弱っていたところへ、大量の酒を浴びて睡眠薬を服用したことから、就寝中に嘔吐し窒息したとされる。享年27歳。デビューからわずか4年だった。
ジミは作曲家としても『紫のけむり』『フォクシー・レディ』『リトル・ウイング』『ブゥードゥー・チャイルド』など多くの名曲を残している。「ジミのアルバムを聴くと毎回新しい発見がある。彼が優れた作曲家だった証拠だよ」(ギル・エヴァンス/ジャズ編曲家)。

「俺はアンタらにサン� ��ュー、サンキューと連発しない。媚びているようで全身が怒りに震えるからだ」(ジミヘン、モンタレーで客席に)
「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな」(ジミヘン、ベトナム反戦の立場から)
「機械(エフェクター)ばかり使っていると言われるが、ステージ上で起きていることは機械がやったのではない。僕がやっているんだ」(ジミヘン)
「"愛の力"が"力の愛"を超えた時、世界に平和が訪れる」(ジミ・ヘンドリックス)
「僕とジェフ・ベックが二人がかりでいっても、ジミにはかなわないだろう」(エリック・クラプトン)
「好調な時のジミを超えるギタリストなどいるはずがない。自分がギタリストであることが恥ずかしくなるよ」(ジェフ・ベック)
「デビュー当初はあまり興味は持っていなかった。半年ぐらい経ってからようやく理解出来るようになった」(リッチー・ブラックモア)
「君は天才ミュージシャンだが、俺達には楽器破壊の芸しかない。俺達を先に出させてほしい」(モンタレーにおけるザ・フーのピート・タウンゼント)

※ジミの死亡時に、同じ部屋にはモニカ・ダンネマンという女性がいた。彼女がすぐに救急車を呼ばなかったこと、ジミの肺からワインが検出されたこと、彼女と救急隊員の証言が異なるなど� ��件に謎が多く、マフィアとの何らかのトラブルに巻き込まれた(殺された)という説もある。ダンネマンは1996年に自殺した。
※エフェクターを限界まで使っているため、現代でも再現(コピー)不可能な音が多い。
※ジミの父親は日系2世のフジタ・ジューン・アヤコと再婚している。

●YouTubeから、モントレーの伝説の公演「ワイルド・シング」(6分8秒)※大暴れは3分45秒付近から



★ジム・モリソン/Jim Morrison(本名 James Douglas Morrison)
1943.12.8-1971.7.3 (パリ、ペール・ラシェーズ 27歳)1994&2002&05&09
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France






アメリカのアートロックバンド、ドアーズのボーカル。楽曲の大半を作詞した。ジムは自身をミュージシャンよりも詩人と位置付けており、複数の詩集を発表している。IQ149。フロリダ生まれ。父は海軍の軍人であり、厳格な家庭に育ったことが、逆にジムの内面にボヘミアン指向を生んだ。詩や哲学を好み21歳でフロリダ大からUCLA(カリフォルニア大学ロス校)の映画学科に移る。1965年(22歳)、ジムはUCLAでレイ・マンザレク(キーボード)と出会い、ジムの詩に惚れたマンザレクは、ジャズ・ドラマーのジョン・デンスモア、フラメンコ・ギタリストのロビー・クリーガーという異色の組み合わせのザ・ドアーズを結成した(ベースの代わりにベース音を出すオルガンを使用)。

 

2012年4月26日木曜日


「大地に抱かれて」
リンダ・ホーガン著 浅見淳子訳 青山出版社

「チカソー族」作家が生きとし生けるものすべてに捧ぐ"環境シンフォニー"
何故アメリカ・インディアンの言葉はこんなにも私の心を打ち共感の世界に引
き込むのだろう。この「大地に抱かれて」の詩的な言葉は、今まで多くの迫害
により消えかかっていこうとする偉大な精神文化を甦らせ、私たちの心の奥底
に眠ってしまったある感覚をも呼ぶ覚まさずにはおかない。私がインディアン
に関心を持った初期に読んだ本だが、読み終わった後の感動は今でも心に
響いている。それはきっとリンダ・ホーガンという人間の飾らない、自然と魂か
ら出てくるその言葉とその人間性によるのかもしれない。

ネイティブ・アメリカンの女として、私は問いかけたい。
私たちはこの星の未来 に、どのような責任を持っているのだろうか。
この星を分かち合うほかの命たちに、どのような責任を持っているのだろうか。

この本に収められているエッセイは、こうした問いかけから生まれた。
人間であることの意味を、探ることから生まれた。
大地とそこに生きる命たちへの、絶えることのない愛から生まれた。
(本書より引用)

リンダ・ホーガンの言葉「心に響く言葉 1996.12.15」を参照されたし
「アメリカ・インディアン女性への賛歌」を参照されたし

 
「レッドマンのこころ」
アーネスト・シートン著 近藤千雄訳 北沢図書出版

「動物記」で有名なシートンが集めた北米インディアンの魂の教え。「レッド
マンの信仰は普遍的であり、基本的であり、根源的であり、本当の意味での
宗教である。」シートン。現代ではアメリカ・インディアンの文化は多くの人々か
らの共感を得るようになっていますが、シートンがこの本を書いたのは約70年
前のことです。その頃は彼らの精神文化を理解する人は数少なく、偏見と差別・
迫害の時代でした。しかしシートンはその直感により、彼らこそ神と深く結びつ
いている人々との確信を得て、その精神文化を探って行ったのです。歴史的に
も貴重な文献の中の一冊。尚、最初この文献は違う訳者により「赤人の福音書」
として出版されましたが、既に絶版となっています。

私が見るかぎり、以上のどれ一つを取り上げても、白人の文明は落第である。
インディアンが所有していた同じ大地において、あれほどの食糧を生産し、あれ
ほどの富を生み出し、ありとあらゆる原料を有し、労働力もあり、働く意欲もあ
ながら、白人文明はなぜ挫折したのか---それだけの好条件を有効に、統合的

にまとめる上で障害となるものが、どこかにあるはずである。今の西欧的物質文
明では、一人の億万長者が出る一方で億の単位の貧困者を生み出すばかりで
る。そんな荒廃のもとでは幸福はあり得ない。世界史に類を見ない勇壮な民族
ったレッドマン、肉体的にも完ぺきの域を極めていたレッドマン、最も霊性豊 か
な文明を生み出したレッドマン---このレッドマンになり代わって私は、古き良き
時代からのメッセージをお届けした次第である。遅きに失したとはいえ、この
メッ
セージが心あるホワイトマンに慙愧の念を覚えさせ、現文明を完全な破滅か
ら救
う手立てを考えねばという気持ちにさせる機縁となれば幸いである。・・
それは、
人類にもまだ救いの道が残されていることを意味するものであろう。

(シートン 本書より引用)

雑記帳「魅せられたもの」1997.6.6「アメリカ・インディアンの残虐性の真否」
雑記帳「魅せられたもの」1997.5.18「真の文明とは」を参照されたし

 
「母なる風の教え」 
ベア・ハート著 児玉敦子訳 講談社

ベア・ハート(ムスコギ・クリーク族長老)は1918年に生まれ、長い修行
時代を経てメディスン・マンとなる。しかしその過程の道において、文明人
には奇跡としか表現することが出来ない現象を自らの体験を交えてさりげ
なく語っており、この分野に関心を抱く方にはとても興味深いものがあるの
だろう。ただ本書の素晴らしさはそんな摩訶不思議なことにあるのではない。
謙虚・勇気・忠誠心・慈愛に満ちた彼自身の人生そのものに、正にそこに
この偉大な聖なる魂を感じてならない。勿論私自身が次のような状況に置
かれたとき、とても彼のように祈ることは出来ないだろう。それは私とは比
べるもなく深い慈愛に立っている人だけしか言うことが出来ない言葉であり、
メディスン・マ ンとして生きることを決意した人間からの伝言である。「わたし
はこれまでに、ありとあらゆる職業の人々、なんらかの形で傷ついた人々と
関わってきて、物事を正しい方向に導くように努力してきたが、養子である
バビーが殺されたときほど、まじない師としても人間としてもつらいことはな
かった。そのような試練に、人はどう立ち向かうのか? わたしは息子を殺
した若者たちに、遠くからでも災いを及ぼすことができるような力を持っている。
だがそんなことをしたら、息子の命を奪った人間と同じになってしまう。聖なる
パイプは、復讐に使ってはいけないことになっている。そうしたことは、すべて
神の手に委ねなくてはならないのだ。わたしは心から神に祈った。"わたしは
彼らのしたこと� ��許すことができませんが、その若者たちもまたあなたがお造
りになったものです。愛について語るのなら、すべての人類を愛さねばなりま
せん。あなたにはわたしの状況がおわかりだと思います。わたしは息子を愛
していたので、今回のことを個人的に受け止めてしまっています。本当は、
あなたのようにその若者たちのことも愛したい、でもできないのです。ですか
らあなたにお願いします。わたしを通して、あなたが彼らを愛し続けて下さい
ますように。そうすればわたしにも、あなたの愛の働きを理解することができ
るでしょう。---- ただ言葉で語るだけでなく、実際の体験として」。

過去のリーダーたちが祈ったとき、彼らはいつも次の世代のために祈っ
きた。「今ここにあるものから、なにを得られるか」ではなく、「これを長く続け
ていくため
には、なにを加えたらいいのか」と。昔のチーフは、部族の中でも
もっとも貧しかった。狩り
から帰ってくると、自分では狩りに行けない未亡人
や年寄りに獲物を与えていた。求めら
れれば、いつでも喜んで自分の分を
与えた。自分自身や自分の家族の分などほとんどな
かった。そうやってリー
ダーは生きてきたのだ ---- いかに自分の分を手に入れるかなど
は考えず、
人々のために。聖書には、天国に入るために二つの質問をされると書いて
る。「彼らが飢えていたとき、食べ物をあげたか? 彼らが裸でいたとき、
着物を着せてあ
げたか?」 我々のリーダーなら、こう聞かれて「はい」と答え
ることができたはずである。

(本書より引用)

 
「ホピの太陽の下へ 女三人、アリゾナを行く」 
羽倉玖美子 著 辰巳玲子 協力 野草社 

本書は映画「ホピの予言」を製作した故・宮田雪さんを通して出会った女性2人
と子どもが、過去の自分を見つめながら、新たな旅立ちの意味をかみ締める旅
の記録である。私自身何故もっと早くこの文献を読まなかったかと後悔している。
この文献の軽妙な語り口は読者を一気に引きずり込ませる巧みさを持ち、そして
何より人生や自分の心に対しての誠実さを言葉の一つ一つに感じてならなかった
からである。この文献を書いたのはイラストレーターとして活躍する羽倉玖美子さ
んで、映画「ホピの予言を通して故・宮田雪さんと知り合う。この宮田雪さんの奥
様が辰巳玲子さんである。この� ��巳さんのお嬢さんを含めて女性3人でホピに向
かうのである。ホピではホピの予言を守る長老たちとの旧知の出会いや、それを
陰で支えてきた女性たちの姿、儀式、遺跡が語られるが、まるで読者もその場に
居合わせたような錯覚を覚えるのは、イラストレーターという職業を通して、真剣に
表現方法を模索してきたからであろう。また辰巳玲子さんも、ご主人(宮田雪さん)
が倒られてからその介護に長年関わってきたが、映画「ホピの予言」製作過程で
も宮田雪さんを支えてきた。あるがままの着飾ることのない二人の女性の生き様
がここに描かれており、心に残る素晴らしい文献である。

1999年2月に、それまで50年間にわたって「ホピの予言」を伝えてきた最後の
メッセンジャー、トーマス、バニヤ� ��カは雲の精霊になり、水の巡りの中に還って
いった。そして、予言を伝え、警告を発信する時代は終わりを告げた。ホピの残
した新しい時代へのメッセージは、「質素で、自然で、精神的な生き方」であり、
「それは一人ひとりにかかっている」ということだ。私が「ホピの予言」と出会って
から、過ぎ越しこの16年間の日々で学んだことは、「平和」の真の意味だ。人と先
を争わず、最後に残った見てくれの悪いとうもろこしを喜んで選び取った者に、
創造主は「ホピ---平和---」と名づけたのだ。その意味を自分の人生の中で私
なりに考え続けた。ただ単に、戦争がなければ平和なのか。ホピの人々の忍耐や、
親切、そして謙虚さや、感情や情動、欲望に自分が支配され、自分ばかりか他人
をも傷つける ことがないように、それらを自ら戒める精神を養った彼らを思う時、
私の中に眠っていた様々なものが目覚め、気づきを与えられてきた。人生の中で
日々の営み、幾多と訪れる試練、悲しみ、怒り、そして喜び、あるいはめぐり合う生
と死・・・・それらを排除せず、また挑まず、自分自身や他者と対立せず、あるがまま
を受け入れる。そして、すべてがバランスの内に歩むようにと、調和を祈る・・・・
それがホピ----平和----としての生き方なのかもしれない。
(本書 内なるホピ それぞれが一粒の種として 辰巳玲子 より抜粋引用)

 
「パパラギ」
はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集 
エーリッヒ・ショイルマン 編 岡崎照男訳 立風書房

本書はアメリカ・インディアンに関する本ではないが、ツイアビの叡智あふれ
る言葉はアメリカ・インディアンの魂そのものであるが故に、ここに紹介するこ
とにする。世界各地にはエスキモー、アイヌなどの優れた精神文化の花を咲か
せた民族が存在し、その視点は不思議にも共鳴しあっている。本書のツイアビ
は、西サモアのウボル島の首長であり、彼が西洋文明を見聞したことを自分の
島の人々に演説するという形を取っており、ツイアビの鋭い、冷静な、そして
先入観によって判断・観察しない視線がこのような素晴らしい芳香をともなった
言葉として結実した。本書は第一次世界大戦終結の二年後の1920年に発行さ
れ、世界各国語に翻訳された名著である。

追記・・・この文献が真実の 体験から出たものではなく、完全な創作だという
記事もあることをご承知置きくださればと思います。

雑記帳「魅せられたもの」1997.3/16「パパラギ」を参照されたし

時間というのは、ぬれた手の中の蛇のようなものだと思う。しっかりつかもうと
すればするほ
ど、すべり出てしまう。自分で、かえって遠ざけてしまう。パパラギ
はいつも、伸ばした手で
時間のあとを追っかけて行き、時間に日なたぼっこの
ひまさえ与えない。時間はいつでも、
パパラギにくっついていなければならない。
何か歌ったりしゃべったりしなければならない。
だが、時間は静かで平和を好み、
安息を愛し、むしろの上にのびのびと横になるのが好き
だ。パパラギは時間が
どういうものかを知らず、理解もしていない。それゆえ彼らの野蛮な
風習によって、
時間を虐待している。

(本書より引用)

 
「忘れられた道」
ある老インディアンとの心の旅
ケント・ナーバーン著 児玉敦子訳 講談社

この本に目新しい叡智の言葉が全く見られないと感じる人もいるかもしれ
ない。しかし、本書に貫かれている怒り、悲しみ、そして許しの言葉が深く私
の心に突き刺さる。そこに映し出された素顔に、喜んだり悲しんだり怒ったり
する老人の表情のひとつひとつの中に、白人との余りにも長き戦いの歴史と
いう記憶が刻みこまれている。1890年12月29日、保留地内のウンデッド・
ニーの丘に銃声が響き渡り、この虐殺をもって白人とインディアンとの戦いは
終結することになる。この丘に集まった人々の3分の2が女性や子供たちで
あった。白人と戦う意志のないことを表明し た300人のラコタ族がこの丘で
虐殺され、1000万人とも推定されていたインディアンもこの年には25万人
になっていった。実にドイツのユダヤ人迫害の犠牲者600万人をも上回る
虐殺が自由の国アメリカで繰り広げられたのである。しかし白人による徹底
した同化政策はその後も容赦なくインディアンに襲いかかり、多くの子供たち
は親元から強制的に離され「インディアン学校」に隔離されてゆく。白人の
言葉、習慣、宗教を押し付けられた子供たちに待っていたのは精神的基盤
の喪失とアルコール中毒の蔓延であった。このような状況の中においても
太古からの教えを守り続けている真のインディアンの悲痛な叫びが、そして
祈りがこの本の中から生きた息吹となって私の心に刻まれた。

わたしはこう思う。もう戦っている場合ではない。わしらは怒りを忘れなけ
ればなら
ならない。わしが自分の怒りを葬り去ることができなければ、子
たちがその仕事を引き受ける。それでもだめなら、そのまた子
供たち、その
また子供たちが引き継ぐ。わしらは心の囚人じゃ。
わしらを開放してくれるの
は時だけなんじゃ。あんたたちは傲慢
な態度を改めなければならない。この
地球上にいるのは、白人
だけではないし、白人のやり方が唯一でもない。世
界のあらゆ
る場所で、人々はそれぞれのやり方で創造主をあがめ、家族を
愛してきた。あんたたちもそのことを尊重するべきなんじゃ。
物質的な力 が
あるのは、あんたたちの強みじゃ。ほかの民には
与えられなかった強みを
持っているということじゃ。それをほかと
分かち合うか、それともさらに力を
手に入れるためだけに使うか?
自分たちの力を分かち合う・・・・・・・それが
あんたたちに課せら
れた課題じゃ。その力は強いが同時に危険なものでも
あるんだ
からな。
(本書より引用)

 
 ビジュアル博物館「アメリカ・インディアン」 
デヴィッド・マードック著 スタンリー・A・フリード監修
日本語監修・富田虎男 翻訳・吉枝彰久 同朋出版

「写真でみるアメリカ・インディアンの世界」
 (「知」のビジュアル百科)
デヴィッド・マードック著 スタンリー・A・フリード監修
日本語監修・富田虎男 翻訳・吉枝彰久 あすなろ書房

表題は違いますが、内容は同じものです。

魅力にあふれる北米先住民の諸文明を再発見するための楽しい入門
書です。目をみはるような頭飾りや美しいビーズの刺繍を施したモカシン靴、
洗練された銀細工、見事な陶器など、豊かな文化を多くのカラー写真で
紹介します。

南西部のプエブロに住む部族から北極圏の狩猟民イヌイットまで、北米
先住民の豊かな文化を豊富なカラー写真で紹介している。これら掲載され
た資料は、恐らくアメリカの博物館に所蔵されているものと思われるが、
その多くが白人によって強制的に取り上げたものであることは歴史の語る
ところである。「聖なるパイプ」に代表されるように代々部族の中で受け継が
れていくべきものの多くを、つまり精神的支柱とも言うべきものさえも搾取し
たきた歴史を考えると、いつか、これらのものを「在るべき」場所に帰してい
かねばならないのではないだろうか。考古学的に、人類学的に貴重なもの
であっても、それらを奪われた(すでに絶滅しているかも知れないが)人々に
返還することにより 、先住民族としての誇りを再び思い起こさせるものとなれ
ばと思っている。それ程、昔からの伝統的な生き方を頑なに守っているイン
ディアンは数少なく、アメリカ政府の同化政策はキリスト教も手伝って徹底的
に行われたのである。この本の豊富な資料に驚くとともに、そこに流された血
と涙を思わずにはいられない。このリペイトリエイション(帰還)については
「森と氷河と鯨」の項目を参照されたし。

 
  「インディアンの生き方を学ぶ」 
モノ・マガジン大特集合併号 No.391 
ワールドフォトプレス

インディアンの世界観や芸術に宿る美しい視点と想いを紹介している雑誌
です。

「今日は死ぬのにいい日だ」ナンシー・ウッドの詩と言葉、インタビュー
ゴーストダンスから真の描くべき対象を見つけたJD チャレンジャーの
代表的な作品
タオス・プレブロの村の写真と、そこに生きる人々
加藤諦三によるアメリカ・インディアンから学ぶ六つの生き方
インディアンダンスのカラー写真
北米インディアンの世界観とエコロジー 横須賀孝弘
魂の叫び 1997年に亡くなったフランク・ハウェルの絵画
日本のレザークラフトの草分け的な存在である高橋吾郎の� ��葉と作品
インディアン芸術が集まるサンタフェ・タオスの紹介
大平原を去った勇者たち 各部族の勇者の物語
インディアンの肖像 著名なエドワード・S・カーティスによる写真
アメリカ・インディアンの本の宇宙 34冊の文献の紹介
インディアンアートに込められた祈り

 
「大事なことはインディアンに学べ ワールド・フォトプレス
北山耕平 編著

日本にインディアンの文化や、その視点を紹介し続けている北山耕平さん
によるインディアンの紹介本です。「レイム・ディア」のヴィジョン・クエスト、
「インディアンに残された予言の解説」など興味ある記事が掲載されておりま
す。また初めてインディアンの文化に触れる方のために豊富に画像を取り入
れ読みやすい工夫がされており、インディアンの言葉や文献、映画なども紹介
されています。この出版社であるワールド・フォトプレスはこれまでにもインディ
アン特集の本を出しており、以下の質の高いものを出版されています。
「インディアンの生き方」、
「インディアンの声を聞け」
「インディアンの生き方を学ぶ」
「インディアンの魂とアートにふれる旅」
「� ��ンディアン・ジュエリー」
「ドリーム・キャッチャー」
「インディアン・クラフト・ブック」

ほんとうに大事なことをネイティブの人たちから学ぶとはどういうことか、
その一端を、この特集からぜひみなさんのこころで感じていただければと
思う。この特集は、わたしがこれまで4年間に自分のブログ「Native Heart」
で公開してきたもののなかから日本列島に暮らすより多くの人たちにとって
重要だと思えるものを厳選した記事から構成し、文章を読みやすくするなど
の手をさらに加えてある。また過去に自分が翻訳して本にしたものの一部を
再構成する形で収録したものもある。わたしたちのすることはなんであれ
宇宙のすべてに影響を与えているというネイティブの人たちの宇宙観をすこ
しでも共有することができれば幸いである。

(本書より引用)

 
「インディアンの生き方」
mono特別編集 ワールド・ムック244 
ワールドフォトプレス

インディアンの世界観や芸術に宿る美しい視点と想いを紹介している濃密な
素晴らしい雑誌です。

2012年4月25日水曜日


1pt

こんなのでよろしいでしょうか?

現在は『蛍の光』は2番までしか歌われていないが、本来は4番まである曲であった。3番と4番は、辺境の地であってもそれは日本の守りのためであり国のために尽くす、というような歌詞であり、この内容が敬遠されて戦後には歌われなくなったようである。

2012年4月24日火曜日


5人目のインタビューはサイレンスの
コーチのJulie Wicher Schokleyさん
(ジュリー)です

写真は旦那さんのジョンさんと一緒のとこです
夫婦でアメフトチームのコーチって、
素敵ですね

ジュリーについての紹介
I think she is the best RB in the world and
women football player.
(私は彼女が女性のアメフト選手の中で世界一のRBだと思ってます)

Julie is a great role model.
(ジュリーはめちゃいい先輩です)  

And she was a member of team USA 
in the 2010 world cup.
(そして彼女は2010年のワールドカップのアメリカ代表選手です)

☆*゚ ゜゚*☆*☆*゚゜゚*☆*☆*゚ ゜゚*☆インタビュー☆*゚ ゜゚*☆*☆*゚゜゚*☆*☆*゚ ゜゚*☆

Noriko: Where would you like to visit in Tottori?
(のりこ:「鳥取県のどこに行ってみたいですか?」)

Julie: I would like to go Mt.Mitoku. 
(ジュリー:「三徳山に行ってみたいな」

 

2012年4月22日日曜日


2 名前:なまえないよぉ~[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 13:19:37.37 ID:VjXF1DUX
声のお仕事だからじゃね

3 名前:なまえないよぉ~[] 投稿日:2012/02/07(火) 13:20:11.40 ID:d4Vj5YEY
なぜ花澤は歌わされるのか?

5 名前:なまえないよぉ~[] 投稿日:2012/02/07(火) 13:20:16.57 ID:wLdzi06a
日高のりこ、より前?

6 名前:なまえないよぉ~[] 投稿日:2012/02/07(火) 13:21:01.65 ID:4SbTgfdn
笠原弘子、か。

4 名前:なまえないよぉ~[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 13:20:16.36 ID:3/Aaqtyf
進化が早すぎるねぇ

どっちかっていうとコンビニの弁当や飲み物みたいに
新商品の目新しさで瞬間最大で売って、売り上げが落ちて
きたらすぐに打ち切って新商品を出すみたいな売り方になってるだけな気もするんだけど

定番商品になれるのは極一部

8 名前:なまえないよぉ~[] 投稿日:2012/02/07(火) 13:23:02.28 ID:1eFae7Dz
声優で最初に歌った人も何も
昔から主役声優はそのアニメのレコードもしくは
おまけのソノシートで歌っていただろう
自分が憶えているのはオバQだけど

11 名前:なまえないよぉ~[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 13:26:51.63 ID:2o5T48bt
イデオンのED叩きか

12 名前:なまえないよぉ~[sage] 投稿日:2012/02/07(火) 13:27:23.77 ID:iGv5cw22
南ピル子さん

2012年4月21日土曜日


"達郎節"は世界中どこにも存在しない強烈なブランド

──さっそくですが、菊地さんの目に"山下達郎"というアーティストがどのように見えているのか、というテーマで、今日はお話を伺えたらと思うんですけど。

このテーマだったらワタシより適役の人が山ほどいると思いますが(笑)、ありきたりなことを、かつかいつまんで言うならば、例えば大瀧詠一、細野晴臣、桑田佳祐などなど、年齢は若干バラバラですが、我が国のポップスの"神々たち"は、原体験がエルヴィス・プレスリーのようなロックよりは、いわゆるオールディーズのポップスにある人たちですよね。当時オールディーズは、そのままの形で邦楽として輸入されていましたから。まあ、中尾ミエとか。

──わかります。オールディーズに日本語詞を付けてカバーする時代ですよね。

そんな中で、オールディーズを咀嚼して全く新しい音楽を作らなければならないっていうミッションを抱えたのが、さっき言った神々であると言うことができます。その中で、最も具体的に、つまり音楽の構造的にオールディーズを無加工で実践しているのが大瀧詠一だと思います。いわゆる、キテレツさを押し出した音頭系の作品も含め、音楽の骨子は実はまんまオールディーズという形が多いですね。趣味人の良い生き方を提示してるというか。

──なるほど。ノベルティソングとか、まさにそういうものですね。

2012年4月19日木曜日


What's new? ver.6


(ここには2006.11.06から2007.2.24 までの更新情報があります)

Last Update 2.24

H.G.ウェルズ「水晶の卵」の翻訳をアップしました。

以前からここでは誰もが知っているけれど、その実、ちゃんと読んだことはない作品、たとえば「女か虎か」のような作品を訳していこうと思っていました。これもそのひとつです。
19世紀末に発表されたこの作品は、『タイムマシン』や『透明人間』、あるいは『宇宙戦争』に比べると有名ではないし、地味な展開で、SFというよりは一種の幻想小説とも読めるものかもしれません。それでもわたしたちが思い描く「地球外生命体」のイメージの根幹にはウェルズが描く「火星人」が元になっているだろうし、ウェルズという作家も「誰もが知っているけれど、その実、ちゃんと読んだことがない」作家のように思います。

その昔、「スタートレック4 故郷への長い道」という映画のビデオを見たことがあります。
この作品では、地球はるか上空で宇宙船が地球に向かって呼びかけているのですが、その呼びかける相手は人間ではなくクジラだったんです。ところがその時代(23世紀だったかもっと先だったか、とにかくうんと先のことです(笑))クジラは絶滅している。お引き取り願おうにも、人間をコンタクト相手と見なしていないその宇宙船は、人間からの信号をまったく認識しない。
そこでカーク艦長以下、エンタープライズ号の乗組員たちは1980年代の地球、というか、アメリカにタイムスリップしてやってくる、という話なのです。

おもしろかったのは、宇宙人(はまったく姿を現さないのですが)が交信相手と認めているのがクジラだったという設定です。確かに交信相手が人間である必要はどこにもないわけです。人間を変形させたような宇宙人が、すこぶる人間的に、遠く宇宙の彼方からはるばる侵略にやってくる、というお定まりの展開を脱しているぶん、印象に残っています。まあ「コミュニケーション」目的にやってくる、というのも、すこぶる人間的な発想ではあるのですが。

わたしたちの空想するものというのは、どこまでいってもわたしたちの考え方の枠組みの範囲内でしかないものです。どれほど「未来の世界」「地球外の生命体」を独創的に想像しようとしても、あくまでそれは人間の思考の範囲内に収まるもの、いいかえれば、すでにある形の、たとえばタコであったり、翼であったり、金属であったり、運河であったり。ふだん思いつかないようなものを組み合わせることによって、可能な限り、「独創的」な未来や異世界を描こうとする。あらゆる創造の試みと同じく、小説の「未来」もそうやって創造されてきたのだと思います。

わたしたちは、時代というものを、どこか「成長」するものであるかのようにとらえてしまいます。テクノロジーが進化した、知識が増えた、そういうことを踏まえて、子供が大人になっていくように、過去から現在に「成長」あるいは「進化」してきたのだ、というふうに感じている。それでも、「創造」が、何かまったく新しいことを生みだすのではなく、過去のものごとの組み合わせであり、すでにあるものの構造を、見方を変えることによって新しく見つける試みであるとするなら、わたしたちが進化したと考えるテクノロジーも、飛躍的に増大したと思っている知識も、すでにあるものの組みかえでしかないのではないか。
だとしたら、この「成長モデル」としてとらえることそのものが誤りであり、つまりは過去の人々を、未熟な、ナイーヴな存在であるように見てしまうのも、誤りということになるのでしょう。

ウェルズの時代の人々が、火星に運河を見たり、タコ型の宇宙人を想像したりしたことを、わたしたちはどこか大人が子供を見るように、滑稽なものとして見てしまうのですが、それは単にわたしたちのものの考え方の枠組みが、当時とは多少違っている、というだけのことなのだと思います。

SF作家ではありませんが、わたしが大変に好きな作家のひとりであるポール・セローが書いたSFに『Oゾーン』(文藝春秋社)という本があります。これはハードカバーの上下巻で、いまではほとんど図書館でしか読むことができないのですが、おもしろい本だとわたしは思っています。
そのなかに、繰りかえし「過去は不可解だが未来はわかりやすい」というフレーズが出てくるのです。わたしは読んだときからずっとどういうことか考えてきました。
そうして、いまはこういう意味だと思うのです。
過去というのは、そのたびごとに読み換えられ、新しく見つけられ続けるもので、未来とはわたしたちの現在知っているもののまわりにひろがるごくわずかな見通しをそう呼んでいるに過ぎないのだ、と。

わたしが経験したさまざまな出来事は、わたしのうちにあって、解釈し直され、別の経験と結びつけられるのを待っている。そうして、それは新しい経験につながっていく。そんなふうに考えると、先がわからない不安より、この先どうなっていくんだろう、という期待の方が大きくなっていきます。
時代を成長モデルでとらえると、文明の勃興→爛熟→衰退となって、「いまをピーク」ととらえて徐々に衰退していく未来をどうしても考えてしまうけれど、その考え方そのものが間違っているのではないか。そんなふうに思います。

その昔、「タイムマシンに乗ってどこかに行けるとしたら、過去に行きたいか、未来に行きたいか」と聞かれたことがあります。わたしは断然未来に行きたい、と言ったら、女の子(当時)で未来に行きたがるのはめずらしい、と言われたのを覚えています。そんなもので性差を云々するのもバカバカしい、と当時思ったものでした(ほら、わたしだってちっとも「成長」していない)。
いまでも、やっぱり未来がいいな、と思います。あのとき、もしああしなかったら、という日付がないわけじゃない。それでも、それをやり直すより、新しいことを積み重ねていきたいと思います。そうして、見ることができるのであれば、そうしたことを積み重ねて、自分がどうなっていくか、どこまで行けるか見てみたい。
だけど、これはタイムマシン、必要じゃありませんね。みなさんは過去と未来、どちらに行きたいと思いますか?
ただし、いまのわたしはタイムマシンなんてものは存在し得ない、と思ってはいますが(笑)。

さて、今日は久々に寒くて、自転車に乗りながら向かい風に涙を流しながら帰ってしまいました。体が寒さに対応していないなあ、とつくづく思っちゃいました。まあこんなふうにぶりかえすように寒い日があっても、またすぐに暖かくなるのでしょうが。

それでもあちこちで風邪が流行ってるという話を聞きます。どうかお元気でお過ごしください。

それじゃ、また。

Feb.24, 2007




Last Update 2.11

「あなたのなかの「子供」―描かれた子供たち」アップしました。

昔から、「純粋さを失ってしまった」とか、「いつまでも少年のままの心で」とかいう言いまわしが、ものすごくキライでした。うそこけ、と思っていました。そんなことを平気で言えるような面の皮の厚いやつが純粋だったり無垢だったりしてたまるか、と。

赤ん坊の状態が一番純粋で、そこから徐々に堕落していくのであったら、いったい何のために生きているんでしょう。何のために経験を積み、学んでいくのでしょう。そんなことをする必要など、まったくない。なにもしないほうがより純粋でいられるのなら、そんなものに一体どんな価値があるというのか。

わたしたちは知らないものは見えないし、知らない音は聞こえません。
赤ん坊というのは、その状態から出発して、自分の生存をかけて、さまざまなものごとを学んでいっている。だから、赤ん坊のうちに何か尊いものを見るとしたら、その「学ぶ」ということに向ける真摯さではないかと思うんです。大人から見れば、小さい子供が覚束なげに口にするかわいらしい喃語ですが、子供の側からすれば、言葉というものを自分なりに認識し、発声を確かめ、発語を練習する、必死の学びでしょう。
問題があるとすれば、いつのまにかわたしたちは学ぶことをやめてしまうことのほうなのではないか。

そういう問題意識がある一方で、小説のなかに出てくる子供の役割はいったい何なのだろう、ということもずっと思ってきました。確かに主人公が成長していく物語では、子供から始まるのは当たり前といえばその通りだ。けれども、それだけなんだろうか。もっと意味があるのではないのか。

ということで、そのふたつの問題意識がつながっていったわけです。
子供時代の思い出が、わたしたちをノスタルジーに浸らせるだけのものなのだろうか。そうではなくて、むしろ行動に向かわせるものではないのか。本に出てくる「子供」を読むことは、記憶を共有することになるのではないか。まあそういうことをああでもない、こうでもない、と(笑)。八幡の藪知らず状態かもしれません。わかりにくいところがあったら、また指摘してください。

記憶というのは不思議なものです。長い時間にわたって何度も会った人より、ほんの数度会っただけに過ぎない人が、自分にとって忘れがたい記憶を残す人になることもあれば、自分のものではない、人から聞いたにすぎない思い出が、その人を媒介して自分のうちに刻まれることもある。
わたしたちはふだん、「自分」を、一種の島のように、独立したものとして考えているけれど、ほんとうにそうなんでしょうか。人の考えが、それまで自分のうちにはなかったにもかかわらず、それを聞いて、自分自身の行動を決めてしまうこともある。自分のものではない記憶や経験が、自分のうちに刻まれることもある。
「自分」と「他者」の区別というのは、そんなにくっきりとしたものなんだろうか。
ジョン・ダンの詩のように、「大陸(くが)の一塊(ひとくれ)」なのかもしれません。

さて、先日、いままで聴いたことのなかったバンドのCDを聴きました。
そこにはわたしがそれまで知らなかった音がある。知らなかった音だから、どういうふうに聴いたらいいかもよくわからないのだけれど、なんというか、もっと聴いてみたい感じがします。
知らない音を聴くとき、あるいは、それまで読んだことのない種類の本を読むときもそうだけれど、確かにそういうものは、わたしたちの世界を広げてくれると思うんです。
それまでよく知っている音、耳に馴染んだ音、あるいはよく知っている種類の本、好きな本とよく似た系列の本、そうしたものは、いまある自分の感覚をなぞってはくれるけれど、広げてくれるものではない。
だから、まだわかりもしないうちに、好きだとか、きらいだとかいうのではなしに、自分のうちに受け容れて、それがどうなっていくかを見てみたい。
よくわかんないなー、と思いながら、それでもどこか引かれるものを感じながら、繰りかえし聴いています。

日差しに春のまぶしさが加わってきました。通り道の満開の紅梅の枝に、ウグイスならぬヒヨドリが止まって、ぴーやーぴーやーとにぎやかに鳴いていました。
このまま暖かくなるのかどうかはわかりませんが、春はすぐそこ。
どうか良い日をお過ごしください。

それじゃ、また。

Feb.11, 2007

2012年4月17日火曜日


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2012年4月16日月曜日



[Pitbull - Intro]
Me not working hard?
俺がろくに働いてないって?
Yea right picture that with a kodak
そうか、じゃそんな俺をコーダックのカメラで撮ってみてくれ
Or better yet, go to times square
それかもっといいのは、タイムズスクウェアに行って
Take a picture of me with a kodak
コーダックのカメラで俺の写真を撮ってくれ
Took my life from negative to a positive
俺は自分の人生をネガティブからポジティブに変えた
I just want y'all know that
それだけはお前らに知って欲しい
And tonight, let's enjoy life
そして今夜は、一緒に人生を楽しもうぜ

Pitbull, Nayer, Ne-Yo
That's right
それでいいんだ

[Ne-Yo / Nayer - Chorus]

Tonight I want all of you tonight
今夜、今夜はお前の全部が欲しい
Give me everything tonight
今夜お前の全てを俺にくれ
For all we know we might not get tomorrow
誰もが知っての通り、俺とお前に明日はないかもしれない
Let's do it tonight
だから今夜楽しもうぜ

Don't care what they say
他の人がなんて言おうと気にしないで
All the games they play
みんなゲームをしてるだけなの
Nothing is enough
十分なモノなんて何もない
Till they handle love (Lets do it tonight)
愛を手に入れるまでは(今夜やろうぜ)
I want you tonight, I want you to stay
今夜あなたが欲しい、あなたにいて欲しい
I want you tonight
今夜あなたが欲しい

2012年4月13日金曜日


人目の訪問者です!

ようこそ早稲田小のホームページへ! 

平成23年度 卒業式

3月23日(金)

一人一人しっかりと返事をし、卒業証書を受け取りました。自分たちで考えた門出の言葉。体育館に響き渡る歌声。厳かで、しかし温かいとても素晴らしい卒業式でした。

3月22日(木)

今日は1年の締めくくりである修了式でした。1年生と6年生の代表児童がこの1年間で学んだことを発表しました。そして、各学級の代表児童が檀上で修了証をもらいました。どの児童も晴れ晴れとした表情をしていました。

3月12日(月)

 

 

全校朝会後は、6年生の鼓笛演奏に合わせて行進し、校舎に入ります。今日は、6年生の演奏が最後の日でした。みんなの前で、今まで演奏してきた曲を全て披露してくれました。また、指揮者代表のあいさつがあり、早稲田の伝統をこれからもつないでいってほしいという力強い言葉を下級生に贈りました。

6年生の演奏の後、楽器などが6年生から5年生に引き継がれました。新しい指揮者のあいさつの後、5年生の初めての演奏に合わせて行進しました。早稲田の伝統が引き継がれた瞬間です。

音楽朝会 1年生&6年生の発表♪

3月7日(水)

 

 

まず、初めに1年生の発表がありました。こいぬのマーチの歌と鍵盤ハーモニカによる演奏でした。歌声がかわいらしく、また鍵盤ハーモニカの演奏もとても上手でした。4月の入学式でまた披露します。

2012年4月12日木曜日


写真 アルバム 1000枚について、全国の子育てママや女性から「ウィメンズパーク」へ寄せられた相談、アドバイスをご紹介。様々な疑問、相談、回答がありますので、きっとあなたの知りたかった情報も見つかるはず。

2012年4月10日火曜日


強風-ドラゴン:こんにちは皆、私はこの話を書いている理由はほとんど(あるいはなし) 、この組み合わせは、誰もが望む、を参照してください好きなのです。ウォッカ、ジン私が、占いは私のものだと彼の妻は確実に属していない。Googleの翻訳翻訳。

タロット

サングラスを彼の20代後半30代前半の男性は、ビジネスの帽子は、スーツだけでなく、いくつかの彼の黒い髪のカバーも内蔵は、特定の建物を探して通りを歩いた。 'くそー、どのようにショッピングを再び動けなくなるのですか? 'この男性は自分のことを考えていた。

*フラッシュバック*

"あなたが私の代わりに食べ物を買いに? "は、彼女のウエストは、青い目に達した長いブロンドの髪の美しい女性をお願いできますか( ? ) 、黒いスカートに黒のビジネススーツを着ていたと黒のハイヒールを着て( 1 )は、人間にも建てられた。

"いや、なぜか"と疑問視する必要があります。

"なぜなら、ウォッカ、もししないと、彼女は"スタートとして、彼女は金髪の男は銀色の髪( 2 )は自分の腰に達したとの男に背中をベッドの中で、彼の写真を見せ、彼は頭を背が高かった彼女の顔に赤いウォッカを見て、女性のグリップの写真を入手しよ うとした人は、男に背中を向けに直面していた男は、 "私は、組織の全員にこの画像が表示されます、 "彼女は、笑顔を見せたが、失敗しました。

彼ベルモットから写真を取得しようとした"地獄の写真を手に入れたのは、気、ベルモット? "ウォッカ事情聴取。

"これは秘密の女性の女性が、 "彼女のいつもの笑顔と商標ベルモットフレーズで述べた。 "私はあなたにするためには、破壊したりする場合は、食料品店に行くジン食品を示すものだよ"とベルモットとして彼女はスナップショット、ばかにウォッカを振っている。

"は、 1つだけ? "ウォッカ神経質に疑問です。

"はい、心配しないでください、私は本当の話だけど、 "ベルモットの笑みを浮かべている。

"フィン私は食料品を買ってあげるが、改善させるような画像をafterwords 、 "ウォッカは、これは、部屋には、家賃をしなければならなかったが、残された彼とジンは同じだったことが唯一の理由だとしていた赤のみ1つのベッド、ソ ファ、ベッドから自分の側の両方が、どうでしたベルモットの世界に滞在することに合意した位置では、ウォッカを超えていた。

彼女が彼の食品としては、 "ハッピーショッピング、 "ベルモット記載の紙の手"ディール、ここに一覧で、心配しないでください、私は写真を誰も表示されません"と話しているの笑みを浮かべている。

*完フラッシュバック*

'くそー彼女は、僕とのパートナーシップをねだるジンは、私だけでは不十分だが、恐喝で食料品店に行くことは、ベルトの下、 'ウォッカ怒って、彼は、 '私はため息を認め、私は彼が好きですが、私は当たっている' tとふてくされて、彼は彼女の言う。私は彼女の言葉、またはGin'llてほしい、 '彼と彼の左のポケットに入れていた食料品店は、買い物リストを現在探していた私の頭があります。

ウォッカ、財産店聞かせ、合格して停止していたものの中に表示するには、ステップを取り戻したのウィンドウを投げた。それは多くの財産を一目見ただけで言っていたもの。

"ようこそ私の占い店に、僕の何かお探しですか? "男性に聞くと、彼は1つのような音も、森の緑の服を占い師は、彼の髪を隠していた場合、彼は良い仕事をした彼の頭の上にフード付きでは、灰色のオーブと、頭を背の高いウォッカだった、彼はおそらく、所有者だった。

2012年4月9日月曜日


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2012年4月8日日曜日


「次郎吉物語」とは

『次郎吉』誕生までのいきさつ

1章:開店の準備

2章:地下から飛び出せ!

3章:80年代に突入

4章:大型コンサートが目白押し

5章:ディジュリドゥ・プレイヤーとして

———-

「次郎吉物語」とは…

2004年に30周年を迎えたJIROKICHI。

同年6月の「 SOUNDS OF SUPERSTARS at JIROKICHI」

7月の「BLUES & JAZZ EXPLOSION in Hibiya」

に向けて、ジロキチがどんなふうに出来たのか、

とか、どんなミュージシャンと共に歩んできたか、

とかをジロキチのマスター(故)荒井 誠が半自伝的に書いたものです。

まだジロキチにいらしたことがない方

日頃からいらしてくれてる方

ぜひ読んでみてください。

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次郎吉物語・本編

生聞居酒屋(ライブハウス)高円寺・次郎吉物語

『次郎吉』誕生までのいきさつ

17歳の秋、信州の実家を出た俺は、その後数年間日本で半放浪生活を続けることになる。まず、静岡のミカン山。19の時には北海道に渡り、アイヌの兄弟と組んで漆喰塗りのバイトをしながらバイク旅行。21の時に、姉を頼って上京、高円寺でディスコの走りだったゴー・ゴー・バーや、じゅうたんバーの雇われマネージャーとして働きはじめた。

69年、24の時に、当時大ヒットしていた五木寛之の「青年は荒野を目指す」に憧れて、恋人と一緒にモスクワ経由でヨーロッパに旅立ち、フィレンツェの山の上の教会で結婚、ハネムーン旅行と洒落込んだものの、言葉も判らず、仕事もしないまま半年で持ち金を使い果たし、愛想を尽かした新妻にはベルギーで捨てられる羽目になった。むざむざ日本に帰るわけにはいかない。というより帰りたくても飛行機代もない。無一文でブリュッセルの街角に取り残され途方に暮れていた時に思い出したのが、ヨーロッパを旅してきた友だちが針金細工のアクセサリーを作り路上で売って稼いでいたという話を聞いて、日本を出る前にかばんの奥につっこんでおいたペンチと針金だった。ものは試しと自己流で簡単なアクセサリーを作ってフリー ・マーケットの一角で売ってみると、作る先から売れていく。次の日もまた次の日も、アクセサリーは飛ぶように売れ続け、フランス・フランの大きなお札がいくらジーパンのポケットに押し込んでも飛び出してくるほどの荒稼ぎをした。

こんな大金を手にしたのは後にも先にもこの時だけで、文無しのその日暮らしは、こざっぱりとしたアパートを借りて毎日レストランで食事という贅沢な生活に一変した。となれば外人の女たちもほってはおかない。一仕事した後は毎晩、若い娘たちとバーで朝までドンチャン騒ぎを繰り広げることになったが、心のどこかに虚しさが残っていた。

そんなある日、友だちのイスラエル人に誘われて、初めて生演奏の音楽を聞ける店にいってみた。イスラエル人が経営する店で、ミュージシャンも全員イスラエル人だった。生まれて初めて入ったライブハウスで、生演奏の迫力とともに感動させられたのは、音楽に身をまかせ、思い思いに演奏に合わせて手拍子を打ち、かけ声をかけているリラックスした客たちの姿だった。そんな客の表情を見ているだけでほっとした気持ちになってくる。

そうだ、言葉も通訳もいらない。その場の雰囲気に合った心地よい音楽があれば、ミュージシャンと客がひとつになって楽しめるのだ。すぐにこの店の常連になって、ミュージシャンや他の常連客とも友だちになった。

日本人の赤軍派ゲリラがイスラエルのテルアビブ空港で銃を乱射、巻き込まれたイスラエル人数名が死亡するという事件があったのはちょうどそんな時だった。その店にいけば日本人というだけで白い眼で見られるかも知れない。でも本当の友だちならそんなことは気にはしないはずだ。そう信じて思い切って店のドアを開けた。

「ハーイ、マコ」

イスラエル人のミュージシャンたちはいつもと変わらぬ笑顔で声をかけてきた。そうだ、同じ音楽を愛する者同士には、人種や国境の壁なんかないんだ。

それが確認できたことが何よりも嬉しかった。

その後もアクセサリーは売れ続けていたが、どこの国でも税務署のしつこさは変わらない。すぐに目をつけられ、半年後には強制送還の憂き目を見ることになってしまった。やむなくアクセサリー作りの道具一式を、貧乏な中国人の絵描きの友だちに譲り、貯まった金は飛行機代を残してきれいさっぱりと使い果たし、結局、日本に持ち帰ったみやげは、ライブハウスをやりたいという漠然とした夢だけだった。

文無しで帰国した後はしばらくバイトで食いつなぎ、26の時に高円寺の北口にある地下の店(現在の次郎吉がある場所)で姉が経営していたフランス料理のレストランの雇われマネージャーとして働きはじめた。やがてレストランをたたむことになった姉から、店を使って何か商売をする気はないかと相談されたのがその3年後だった。この願ってもないチャンスに飛びつき、ライブハウス開店の夢が実現したのは、ヨーロッパ旅行から戻って5年後の1974年、29歳の時だった。

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すべてが手作りの店(1974年)

当時、同じ中央線沿線の吉祥寺にはフォークの店「ぐぅあらん堂」、西荻窪には「アケタ」とロフト西荻店、荻窪には「ロフト」荻窪店と、若者に生演奏を提供する店がぼちぼち出来はじめていた。高円寺にもジャズやロック、ブルースを流す喫茶店が数軒あり、立地条件も悪くなかった。スタッフも意外に簡単に集まった。姉のレストランの常連で音楽好きのマーちゃん、ヨーロッパ放浪中につるんでいた菊地浩司、そして高円寺で最初のブルース喫茶、「シットバック」の常連のチュチュがすぐに名乗りをあげてくれた。チュチュはその1年前、新宿の西口で「マガジン1/2」という、おそらく東京で最初のライブハウスと呼べるものをはじめた男だ。当時、京都、大阪を中心に活躍していたウェストロード・ブルースバンド、ブルース ハウス、憂歌団、妹尾隆一郎といった初の日本人ブルースバンド、ブルース・ミュージシャンをいち早く東京に呼んだものの、時期が早すぎたためか店は1年足らずでつぶれてしまったらしい。とはいえ、新米ライブハウス経営者の右腕としてはまさにうってつけの人材だった。

店の内装、外装はプランニングから実際の工事まですべてスタッフの手作業だった。壁は黒一色に塗り、ミュージシャンのポスターやレコード・ジャケットを一面に貼りつけ、アングラっぽい雰囲気に統一した。ステージ正面の壁には、京都に住む前衛芸術家でブルースファンのアクさんが創った木片の御札の束が飾られていた。呪文を唱えてから適当な御札を3枚めくり、札の裏に書かれている言葉をつなぎ合わせると運勢が判るという占いゲームのようなものだ。

天井からは古ぼけたランプとドライフラワーがぶら下がっている。雨の中、信州の田舎から運んできた大木の切り株がテーブル代わりだったが、濡れて水を吸い込んだ切り株はとんでもなく重く、大人3人がかりでやっと持ち上げ、それこそ命がけで地下の店内に運び入れた。カウンターも木製の手作りにしたが、椅子は節約のためレストラン時代のものをそのまま使うことにした。その革張りの椅子がいかにも不釣り合いなので、飾り柱を何本か立ててみたが、その結果、柱に頭をぶつける人が続出、不評だった。

入口は山小屋風の店構えにするために、路地に面した外壁に、縦割りにした丸太を張り、レストランの置き土産の大きなまな板に、自分で「生聞居酒屋・次郎吉」とノミで彫った看板を掲げた。生聞は、生で聞く、つまり自分なりのライブ(Live)の直訳だ。憂歌団のライブ・アルバム、「生聞59分」というタイトルはこの看板の文字をそのまま借用して付けられたものだ。やっと外装、内装が完成し、念願のライブハウス「次郎吉」が開店にこぎつけたのは、工事開始から約1ヵ月後の1974年2月1日だった。

「次郎吉」という店名の由来を今でもよく聞かれる。その頃は、横文字の名前の店が多かったので、かえって日本語のほうが目立つし外人受けもするのではないかと思ったのだ。もちろん日本を代表する大泥棒、ねずみ小僧の次郎吉を意識して付けた名前で、言葉の響きもいい。電話帳を調べると、次郎長はあったが次郎吉という店名はひとつも見あたらなかったので、これで決まり!ということになった。この名前はとても気に入っているのだが、銀行で名前を呼ばれた時、他の客が「次郎吉さんって誰?」といった感じで辺りを見回すので、 立ち上がりづらかったということが何度もあった。

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開店はフォークで。(1974年2月1日)

開店初日のライブのブッキングは吉祥寺のマッチボックスという事務所に頼み、当時のフォーク界の人気スター、高田渡、西岡恭蔵、友部正人、大津あきらが出演したが、この日、大津あきらのバックで演奏していたのがまだ十代だった坂本龍一だ。昼、夜、2回のステージはどちらも満杯で、好調なスタートにスタッフ全員ほっと胸をなでおろしたまではよかったのだが、ほっとしすぎて気が弛んだのだろう、ミュージシャンのギャラを店に来る途中で落とし、泣く泣く知り合いに借りる羽目になるという頂けない落ちがついてしまった。

関西ブルース・パワー炸裂(イエロー・ブルースの誕生)

開店当時はミュージシャンの数も少なく、ライブは週末だけで、平日はパブとして営業していたのだが、客足はさっぱりだった。というのも、アングラ風の入口のドアを開けると、地下に向かって両側にアングラ劇団やコンサートのポスター、チラシが貼られた薄暗い階段が続いているので、普通の人間、特に若い女の子はまず敬遠して入ってこないのだ。そのうちに高円寺、阿佐ヶ谷周辺に住んでいる若い漫画家集団とヒッピー連中のたまり場になり、一般客はますます入りにくくなってしまった。打開策として昼にランチを出してみたが、いつもの顔ぶれが昼間からたむろするようになっただけだった。

そんな時、希望の光になってくれたのが、京都の若者を中心に関西で起きたブルース・ブームだった。

京都ではウェストロード・ブルースバンド、ブルースハウスが2大人気ブルースバンドとして活躍。大阪では憂歌団が活動しはじめていた。

ジャズ喫茶以外なかった東京にも、下北沢の「ゼム」、高円寺の「シットバック」、西荻「ロフト」、新宿の「セラヴィ」など、ブルースが聞ける店が出来はじめ、音楽関係者もブルースに注目しはじめていた。

最初に「次郎吉」に登場した関西のブルースのバンドは、ウェストロードを離れた山岸潤史のセッショングループだった。

メンバーは山岸(ギター)、砂川(パーカション)、チュウ(ベース)、ベーカー(ドラムス)、北京一(ヴォーカル)、国府(キーボード)だった。

この山岸のグループが発展して出来たのが、日本人ブルース・ソウルバンドとして初めてアメリカ・レコーディングの快挙を果たしたソーバッド・レビューだ。

山岸談:「最初に次郎吉に出たのは75年の5月頃や。ウェストロードはもうやめとったから自分のバンドで出たはずやな。ウェストでは次郎吉に出てないよ。俺、75年の8月11日にアメリカに行ったんやけど、次郎吉のスケジュール表に「山岸、砂川渡米記念、7月連日出演」って書いてあるんや。でもその頃は京都におったんやで、どうやって連日出演できるちゅうねん!よう考えたら次郎吉でマスターの次に古いのが俺やな。ワオさんより古いんやで」

次に、「マガジン1/2」のマスターとして関西のブルース・ミュージシャンを呼んだ経験のあるチュチュのコネで声をかけたのが、京都を中心に学生たちに圧倒的な人気を持っていたウェストロード・ブルースバンドだ。

75年、キャラバンカーで乗り込んできた彼らの演奏は、荒削りだが、東京のミュージシャンたちにはない迫力と熱気、そして何より泥くさい魅力に溢れていた。

「ノってくれるまで帰さへんでえ!」的な気合、サービス精神、プロ根性。どこから聞きつけたのか宣伝もしないのに店は若者客でいっぱいになった。

こりゃすげえ。ブルースが何かも俺にはよくわからなかったけれど、ハングリーでファンキーな関西ミュージシャンたちがすっかり気に入ってしまい、「これや、これが音楽や!」とばかりに、次々に関西の人気ブルースバンドに声をかけるようになった。交通費を節約する為に、ワゴン車にメンバーと機材がすし詰め状態。俺の狭いアパートは貧乏関西ブルースメンの無料宿泊所と化し、常に関西弁と洗濯物で溢れていた。

ウェストロードの次に呼んだのは、「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」と「憂歌団」だった。初めて日本語のブルースのレコードを出した浪花のアコースティック・ブルースバンド、憂歌団のデビュー・シングル「おそうじオバチャン」は発売後、1ヶ月足らずで放送禁止になったにもかかわらずブルース系のシングルとしては大ヒットし、「次郎吉」、吉祥寺の「曼陀羅」、「のろ」、新宿「ロフト」、「ヘッドハンター」などが競争で呼ぶようになり、東京にも本格的にブルースの種がまかれることになった。

その頃京都では、現在もライブハウスの老舗として健在の「拾得」、「磔磔(たくたく)」、続いてオープンした「サーカス・サーカス」、「京大・西部講堂」がブルースマンたちの活動拠点になっていた。ミュージシャンの大半は同志社大学を中心とした京都の学生で、東京出身者はブルースハウスのギターのハッチャン(服田洋一郎)とベースのモッチャン(森田恭一)ぐらいで、後は全員、九州、四国を含めた名古屋以西の人間で占められていた。名古屋にも「オープンハウス」という店があって、近藤房之介や、尾関ブラザースが活躍していた。

76年~77年にかけて、アメリカから黒人ブルースマン、スリーピー・ジョン・エスティスとハープのハミー・ニクソンのコンビ、ロバート・ジュニア・ロックウッドとジ・エイシズが来日。第1回ブルース・フェスティバルに出演、大成功をおさめた。

スリーピー・ジョンとハミー・ニクソンは78年に再来日、憂歌団と全国ツアーし、次郎吉にも出演している。

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ナベサダとジャズ

渡辺貞夫さんとの出会いは次郎吉開店前にさかのぼる。一時期芸能関係の仕事をしていた姉が貞夫さんと間接的な知り合いで、ライブハウスをやるのなら一度挨拶に行きなさいとアポイントをとってくれたのだ。貞夫さんは、「ライブハウスなら、グランドピアノが絶対に必要だよ」とアドバイスしてくれたので、オープンに間に合うように、当時はなかなか手に入らなかったグランドピアノをローンで買うことになった。

そんなことで次郎吉に興味を持ってくれたのだろう。開店後まもなく貞夫さんから出演オーケーの連絡が入った時は大喜びしたが、当時の貞夫さんのライブは今のような軽めのサウンドではなく、4ビート、8ビートのジャズで、月一度のライブも20~30人程度の入りが続いた。貞夫さんの音楽が急激に変わりはじめたのは76年、FM東京が次郎吉で公開ライブをした頃からだ。

公開録音ということで、店はほぼ満員、友人知人常連も押しかけ、和気あいあいとした雰囲気の中で、貞夫さんもいつになくリラックスしていた。ステージの前半はジャズで、客席も静かに聞き入っていたのが、中盤の「黒いオルフェ」から始まったサンバ・メドレーで一気に火がついた。情熱的なサンバのリズムとビートに乗ったナベサダの心地よいアルトサックスのソロに酔った客は、いつのまにか全員総立ちで踊りだしていた。スタッフはあわてて椅子を片づけ、客席はダンスフロアに一変、リオのカーニバルの縮小版のような光景が繰り広げられることになった。アンコール、アンコールの拍手と歓声は鳴りやまず、締めにアフリカ民謡「マライカ」をスワヒリ語で全員で大合唱、やっと幕を閉じることになった。このライブを� ��機にナベサダ・ブームが巻き起こり、貞夫さんはこの年に芸術祭大賞を受賞している。その後しばらく貞夫さんは頻繁に次郎吉に足を運び、若手のブルース・ソウル系ミュージシャン、特にCちゃん・ブラザースとのセッションを通じて新しいサウンドをつくりあげていった。

いわゆるフュージョン系のポップ・ジャズ・サウンドである。資生堂の専属モデルとしてテレビのコマーシャルにもたびたび登場、瞬く間にビッグになった。

レギュラー・スタッフの確立( ワオ&チビタ)

2012年4月6日金曜日


作詞:Takao Kisugi, Etsuko Kisugi 作曲:Takao Kisugi, Etsuko Kisugi

歌詞:雨の多い季節に あなたは去った 無理した日々とうらはらに 輝く ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:ただ連らねた文字が そらぞらしく見える 書いても書いても埋ま ...

作詞:TAKAO & ETUKO KISUGI 作曲:TAKAO & ETUKO KISUGI

歌詞:空席見つけ 向かい合わせたひと 窓の外は はるか緑 どことな ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:いそいで 待ち合わせ場所 かけてく 途中で 目の前 思いかけ ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:月夜の舗道で 腕を組む 少し青春さかのぼる 結構君なら ...

作詞:TAKAO & ETUKO KISUGI 作曲:TAKAO & ETUKO KISUGI

歌詞:喉とまで 言葉あふれて 何度もただ 姿勢正す 視線は ほ ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:さみしさの時間は 長いはずかも 歓びは 走るほど 短いかも ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:映像はゆらめいて影の部分のめまい スクリーン背にしたらノイズだ ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:波しぶきをくぐり抜けて 君が渚に現われる 砂に埋められた ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:恋にはつきものさプレッシャー お互いわかり合えるまでは ...

作詞:来生 えつこ 作曲:来生 たかお

歌詞:白い雲を つかめそうな渚日和で 走る景色 海の青が 飛んで行く ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:夜の海 冷えた肌に 手をふれて ためらう君を 引き止めて 好 ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:ほのかに甘い視線 感じて横眼づかい そのたび伏せる 君の瞳かわ ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:少しだけ 疲れた顔で 君は静かに 眠ってる スタンドの 淡い ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:鉄階段 ひびかせて あの娘のお帰り ぶどう色の アイライン 月 ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:開襟のシャツの胸元から 両切り煙草を 男は無造作に取り出し く ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:真夜中のオイルスタンドには はかない 都会の影 ホリゾント ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:街路樹にもデコレーション 銀の花咲くよ おシャレなエプロンの ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:メロディーさがして 言葉さがして 都会のうつろい 嘆きながらも ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:青い空が突き抜ける スニーカーぶらさげ歩く 夏は デイ・トリ ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:シャープで早い 君の言葉 耳元を スライスする 落ち込む ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:岬へと 続く坂道 自転車を 投げ出し二人 眺めていた 白い灯 ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:春ならば 雨なんて 少しは濡れても 寄りそえば 冷たくなんかな ...

作詞:来生 えつこ 作曲:来生 たかお

歌詞:あなたに ひと夏 心を あずけ 渚に しみる雨と 消えた サイ ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:ドライな 言葉聞きあきた とび抜けた個性 少し迷惑 普通 ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:聞こえてくるのは月のソナタ 夜空に冴えてるゴンドラムーン 二 ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:Sparking my head ショートして 混乱の 頭の ...

作詞:Takao Kisugi, Etsuko Kisugi 作曲:Takao Kisugi, Etsuko Kisugi

歌詞:あー 長い旅にはるか あー つなぐ心模様 今日も(いつも) ...

作詞:Takao Kisugi, Etsuko Kisugi 作曲:Takao Kisugi, Etsuko Kisugi

歌詞:眠りは浅く夜の深い夏 余熱の残る道路に立ってる 自動販売機に ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:ほろにがく恋の途中 流れる時間 惜しんだ時間も いつまでも夢の ...

作詞:来生 えつこ 作曲:来生 たかお

歌詞:季節は幾つも 長い恋 自然過ぎるほど 心の天気図 わがま ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:見つめられすぎて まぶたが痛い 揺れるシダの葉影 海のように波 ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:Dreams come ture, 今日ではない明日へ 疑問符 ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:陽ざしまで 君は連れてくる やわらかい まなざしが素敵 誰よ ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:夏の日の 海の町 飛び散る きらめきの中 夜毎の 海の宿 ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:僕がどんなに 見つめても ほんのりと首をかしげ 視線を上手に ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:君を 抱きしめたいずっと 想い 伝えたいから 朝の 目覚 ...

作詞:来生 えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:どうしてあなたは 涼しげでいられる ふれるほど近く くちびる ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:ある日 真紅のダリアを胸にさした女がやって来て 裏の雑木林に一 ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:君がいつもより ずっと素敵に見えて 向かい合う夜は 窓辺の月も ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:縞模様のパラソルが 潮風にはためいて 夏の海は もうすぐしまい ...

作詞:来生えつこ 作曲:来生たかお

歌詞:ちらりと覗くウィンドウ大胆なデザイン ためいきをつくあなたのつ ...

作詞:TAKAO & ETUKO KISUGI 作曲:TAKAO & ETUKO KISUGI

歌詞:長い髪を 束ねたうなじに ふと目がいく 舗道から きらめ ...

作詞:TAKAO & ETUKO KISUGI 作曲:TAKAO & ETUKO KISUGI

歌詞:傷つくだけの恋 それじゃ哀しいよね 別れもきっと はかない な ...

2012年4月5日木曜日


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(5月21日)

 太平洋・島サミットの開催が明日となりました。昨日の夜遅くツバルの代表団が到着し、主な出席者がそろいました。既に多くの関連行事が始まっていますので、関係者は本人の意志とは別に、急流に巻き込まれたような感覚を味わっています。

 昨日は、日本水フォーラムの主催する「水と衛生に関する太平洋諸島首脳円卓会議」が外務省と世界銀行の後援により、都内で開催されました。
 参加した太平洋島嶼国首脳は、日本政府のこれまでの支援に感謝し、今後さらに深刻化する水問題解決に向けた支援に対する期待をもって、円卓会議の成果を今回の太平洋・島サミットに活かすよう求めました。

 円卓会議終了後、島嶼国首脳は御茶ノ水に移動し、明治大学に移転する太平洋諸島センター(PIC)の起工式が行なわれました。起工式は伝統的な鍬入れ式で、大勢の参列者が見まもるなかで、日本水フォーラムの会長を務める森元総理、橋本外務副大臣、タランギPIF議長、スレイドPIF事務局長、長谷川PIC所長、日高明治大学理事が「えい!えい!えい!」の掛け声と共に鍬を入れました。島嶼国の首脳は日本の伝統儀式を興味深く見つめていました。

 本日からは、太平洋・島サミットの公式行事が開催されます。午前にはJETROとPICの共催する「太平洋諸島展 2009」と「ビバ・パシフィック・アイランダーズ」が開幕します。午後は天皇皇后両陛下の「宮中御茶会」が催されます。夜は中曽根外務大臣の主催する歓迎レセプションです。

 祭りは準備の期間がメインで、始まってしまえばと、よく言われます。太平洋・島サミットを祭りに喩えるのは不謹慎かもしれませんが、準備する者にとってはお祭り気分も必要です。今回のメインイベントは明日からです。

(5月20日)

 準備期間は二日となりましたが、既に二国間首脳会談や関連行事が次々に実施されています。「太平洋・島サミット準備事務局」では多くの人達が深夜まで勤務しています。そのまま朝を迎えている人もいるようです。

 本日はナウル共和国のスティーブン大統領、トンガ王国のセベレ首相、ニュージーランドのマッカリー外相、マーシャル諸島共和国のトメイン大統領、パラオ共和国のトリビオン大統領、ツバルのイエレミア首相及び太平洋諸島フォーラム(PIF)の事務局長が到着します。残りはオーストラリアの代表のみとなりました。

 昨夜は都内のホテルで在京パプアニューギニア大使館のレセプションが盛大に催されました。マウエ大使は40年間に及ぶソマレ首相の政治家としての経歴を賞賛し、ソマレ首相は世界第二位の経済大国である日本との歴史的・経済的関係を重視しているとの挨拶を行いました。

これまでもお知らせしてきましたが、本日実施・開催される関連行事は以下のとおりです。

2012年4月3日火曜日


こんにちは、彩塾塾長のMOMOです。

埼玉県で夫と小学生の娘の3人で暮らす、ごく普通の主婦です。
でも普通の主婦と少し違うのは、自宅にいながら社長として、会社を経営していること。

私自身、数年前はパソコンの素人同然、ブラインドタッチはもちろん、
MACユーザーだったので、Windowsはちんぷんかんぷんでした。

今でもブラインドタッチもできない私ですが。

ウェブ制作の会社を興し、塾を運営したり、セミナーを開催したりするまでになりました。

こういうと、女性起業家として順調にやってきたように聞こえると思いますが、
それまでの道のりは決して楽ではありませんでした。

娘を出産したあと、子育て中に社会と断絶された感じを抱き、自分の人生、
このままでいいの?と、やりたいことをあきらめるのが母親なの?と悩みました。

インターネットに出会い、子育てしながら、社会とつながる窓を見つけました。

今では、一生情熱を傾け、社会に貢献していけるライフワークに出会うことができました。

それが、主婦の起業を支援する「彩塾(さいじゅく)」です。

私自身、家にいるときは、ごく普通のお母さんです。

娘の授業参観には欠かさず出席し、家族の具合が悪いときは仕事を休んで看病します。

会社員やパートタイマーという働き方では得られない、自由な時間も満喫できています。

それは、私がインターネットを活用した働き方を見つけたおかげなんです。

私は、○○ちゃんのママとか○○さんの奥さんという風に、
呼ばれることにずっと抵抗がありました。

だって、私はわたし。誰かの付属物ではありません。

主婦であり、ママであり、女であり、ひとりの人間です。
家庭や子育てを理由に、何かを我慢するのはしたくなかったんです。

そんな風に何かを諦めたくない女性たちを応援するため、彩塾(さいじゅく)を始めました。

結婚して、子どもができたから専業主婦になる。働くのはパートで。という考え方は、もう古いんです。

インターネットを上手に活用すれば、自分の好きなことで起業することができます。 つまり、起業して一番大変な部分、集客をインターネットで行えばいいんです。

ネット集客のスキルを身に付けてからの起業は、失敗やリスクがぐんと少なくなります。

また、主婦が起業しようとする場合、 圧倒的に足りないものが、ビジネスに関するマーケティングの知識や人脈です。

彩塾では、マーケティングの知識を身に付けながら、 自分や商品・サービスの強みを見つけ、「あなただからできる」起業を実現し、 ビジネスを広げて行く人脈作りとその場を提供します。

2008年にスタートした彩塾では、250名以上の女性が学び、
自分スタイルの起業を実現してきました。

ですが、今までの彩塾は、通信制ということで、1期40〜50名ほど募集し、
テキストを配信し、自宅で1人で学んでいただくスタイルだったため、
途中でつまづく方や、モチベーションが継続できず、
起業をあきらめてしまう方もいたのが現実です。

通信制ということで、「顔の見えない」部分がどうしてもあり、
コミュニケーション不足を感じ、私自身、それがはがゆかったです。

そこで、彩塾5期募集は延期し、新しく「彩塾プレミアム」として、
通信制で学べる部分に加え、月に1度、少人数でグループコンサルを
行うことで、よりパーソナルに、その方にあったアドバイスをできるようにしました。

塾生のニーズをできる限り把握し、その期待に応えていくため、
効率を追求するのではなく、むしろ、規模を縮小し、距離を縮めて、
ひとりひとりの人間的成長にも重きを置いたプログラムにしました。

毎月6名同じメンバーが顔を合わせることで、濃いつながりもできますし、
1対1のコンサルよりも、他の人の事例からも学べるグループコンサルに
することで、仲間との対話からヒントやチャンスが生まれ、
そこからビジネスが広がります。

毎月のグループコンサル以外に、塾長との対面コンサル(90分)と、
テキスト配信、彩塾SNSでの交流、彩塾セミナーへの参加など、様々な特典で、

彩塾は、あなたスタイルの起業を応援します!

MOMOさん とは かれこれ6年ものお付き合いになります
志も 主婦と言う立場も 起業家という立場も 
アフィリエイターと言う立場も一緒で
いつもアイディアを出し合いながら
いろいろなことをタイアップしてやってきました

この彩塾 「待っていました!!」という塾だと思います

ネット上には たくさんの私塾がありますが
こんなにふんわりした女性が塾長のところはありません

MOMOさんは 自分のことを男っぽいといいますが
涙もろく いつもまわりを 安心させてくれる 
とてもすばらしい女性です

ママとしても 妻としても、そして 起業家としても
前向きに元気な姿勢でアイディアいっぱいに前に進んで行く方です

 

彩塾をひとことであらわすと

「普通の女性が自分スタイルで起業する方法を
あますところなく伝える塾です」

 

それも時代にマッチした最新の方法をリアルタイムで提供してくれます

このページには書いていない
彩塾のすばらしい点をあげてみました

●自分の居場所を確保できます
(これは女性はとくにほしいところですよね)

●どのような スキルの方でも安心して始めることができます
(サポートがすばらしいです)

2012年4月1日日曜日


I'm Every Woman – The Bodyguard soundtrack • diskografie.info 、歌詞のソース

ホイットニーヒューストン

あなたの好きな
以下のものが必要ですどのよ​​うな
あなたが欲しい何が赤ん坊を行う
私は自然にそれを行う
"私はすべての女性(すべて女性)だ原因
それは私のすべてです
それは私のすべてです
うん

私はすべての女性です
それは私のすべてです
あなたが欲しい何が赤ん坊を行う
私は自然にそれを行う

私はすべての女性です
それは私のすべてです
私は今自分の考えを読むことができます
屋が言う作った誰でもすべての女性、...
ドウドウドウドウドウドウ
おっと(ああ)ちょっと待って(OH)ちょっと待って


実行する方法をパンクは、デザインを作る

私は呪文を唱えることができる
参照してください、が、言うことができない
特殊な溝を混在させる
あなたの内側に火を入れる
いつでも、危険や恐怖を感じる
その後、即座に
私が表示されます
ええオハイオ州