次郎吉物語 | Live Music JIROKICHI
「次郎吉物語」とは
『次郎吉』誕生までのいきさつ
1章:開店の準備
2章:地下から飛び出せ!
3章:80年代に突入
4章:大型コンサートが目白押し
5章:ディジュリドゥ・プレイヤーとして
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「次郎吉物語」とは…
2004年に30周年を迎えたJIROKICHI。
同年6月の「 SOUNDS OF SUPERSTARS at JIROKICHI」
7月の「BLUES & JAZZ EXPLOSION in Hibiya」
に向けて、ジロキチがどんなふうに出来たのか、
とか、どんなミュージシャンと共に歩んできたか、
とかをジロキチのマスター(故)荒井 誠が半自伝的に書いたものです。
まだジロキチにいらしたことがない方
日頃からいらしてくれてる方
ぜひ読んでみてください。
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次郎吉物語・本編
生聞居酒屋(ライブハウス)高円寺・次郎吉物語
『次郎吉』誕生までのいきさつ
17歳の秋、信州の実家を出た俺は、その後数年間日本で半放浪生活を続けることになる。まず、静岡のミカン山。19の時には北海道に渡り、アイヌの兄弟と組んで漆喰塗りのバイトをしながらバイク旅行。21の時に、姉を頼って上京、高円寺でディスコの走りだったゴー・ゴー・バーや、じゅうたんバーの雇われマネージャーとして働きはじめた。
69年、24の時に、当時大ヒットしていた五木寛之の「青年は荒野を目指す」に憧れて、恋人と一緒にモスクワ経由でヨーロッパに旅立ち、フィレンツェの山の上の教会で結婚、ハネムーン旅行と洒落込んだものの、言葉も判らず、仕事もしないまま半年で持ち金を使い果たし、愛想を尽かした新妻にはベルギーで捨てられる羽目になった。むざむざ日本に帰るわけにはいかない。というより帰りたくても飛行機代もない。無一文でブリュッセルの街角に取り残され途方に暮れていた時に思い出したのが、ヨーロッパを旅してきた友だちが針金細工のアクセサリーを作り路上で売って稼いでいたという話を聞いて、日本を出る前にかばんの奥につっこんでおいたペンチと針金だった。ものは試しと自己流で簡単なアクセサリーを作ってフリー ・マーケットの一角で売ってみると、作る先から売れていく。次の日もまた次の日も、アクセサリーは飛ぶように売れ続け、フランス・フランの大きなお札がいくらジーパンのポケットに押し込んでも飛び出してくるほどの荒稼ぎをした。
こんな大金を手にしたのは後にも先にもこの時だけで、文無しのその日暮らしは、こざっぱりとしたアパートを借りて毎日レストランで食事という贅沢な生活に一変した。となれば外人の女たちもほってはおかない。一仕事した後は毎晩、若い娘たちとバーで朝までドンチャン騒ぎを繰り広げることになったが、心のどこかに虚しさが残っていた。
そんなある日、友だちのイスラエル人に誘われて、初めて生演奏の音楽を聞ける店にいってみた。イスラエル人が経営する店で、ミュージシャンも全員イスラエル人だった。生まれて初めて入ったライブハウスで、生演奏の迫力とともに感動させられたのは、音楽に身をまかせ、思い思いに演奏に合わせて手拍子を打ち、かけ声をかけているリラックスした客たちの姿だった。そんな客の表情を見ているだけでほっとした気持ちになってくる。
そうだ、言葉も通訳もいらない。その場の雰囲気に合った心地よい音楽があれば、ミュージシャンと客がひとつになって楽しめるのだ。すぐにこの店の常連になって、ミュージシャンや他の常連客とも友だちになった。
日本人の赤軍派ゲリラがイスラエルのテルアビブ空港で銃を乱射、巻き込まれたイスラエル人数名が死亡するという事件があったのはちょうどそんな時だった。その店にいけば日本人というだけで白い眼で見られるかも知れない。でも本当の友だちならそんなことは気にはしないはずだ。そう信じて思い切って店のドアを開けた。
「ハーイ、マコ」
イスラエル人のミュージシャンたちはいつもと変わらぬ笑顔で声をかけてきた。そうだ、同じ音楽を愛する者同士には、人種や国境の壁なんかないんだ。
それが確認できたことが何よりも嬉しかった。
その後もアクセサリーは売れ続けていたが、どこの国でも税務署のしつこさは変わらない。すぐに目をつけられ、半年後には強制送還の憂き目を見ることになってしまった。やむなくアクセサリー作りの道具一式を、貧乏な中国人の絵描きの友だちに譲り、貯まった金は飛行機代を残してきれいさっぱりと使い果たし、結局、日本に持ち帰ったみやげは、ライブハウスをやりたいという漠然とした夢だけだった。
文無しで帰国した後はしばらくバイトで食いつなぎ、26の時に高円寺の北口にある地下の店(現在の次郎吉がある場所)で姉が経営していたフランス料理のレストランの雇われマネージャーとして働きはじめた。やがてレストランをたたむことになった姉から、店を使って何か商売をする気はないかと相談されたのがその3年後だった。この願ってもないチャンスに飛びつき、ライブハウス開店の夢が実現したのは、ヨーロッパ旅行から戻って5年後の1974年、29歳の時だった。
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すべてが手作りの店(1974年)
当時、同じ中央線沿線の吉祥寺にはフォークの店「ぐぅあらん堂」、西荻窪には「アケタ」とロフト西荻店、荻窪には「ロフト」荻窪店と、若者に生演奏を提供する店がぼちぼち出来はじめていた。高円寺にもジャズやロック、ブルースを流す喫茶店が数軒あり、立地条件も悪くなかった。スタッフも意外に簡単に集まった。姉のレストランの常連で音楽好きのマーちゃん、ヨーロッパ放浪中につるんでいた菊地浩司、そして高円寺で最初のブルース喫茶、「シットバック」の常連のチュチュがすぐに名乗りをあげてくれた。チュチュはその1年前、新宿の西口で「マガジン1/2」という、おそらく東京で最初のライブハウスと呼べるものをはじめた男だ。当時、京都、大阪を中心に活躍していたウェストロード・ブルースバンド、ブルース ハウス、憂歌団、妹尾隆一郎といった初の日本人ブルースバンド、ブルース・ミュージシャンをいち早く東京に呼んだものの、時期が早すぎたためか店は1年足らずでつぶれてしまったらしい。とはいえ、新米ライブハウス経営者の右腕としてはまさにうってつけの人材だった。
店の内装、外装はプランニングから実際の工事まですべてスタッフの手作業だった。壁は黒一色に塗り、ミュージシャンのポスターやレコード・ジャケットを一面に貼りつけ、アングラっぽい雰囲気に統一した。ステージ正面の壁には、京都に住む前衛芸術家でブルースファンのアクさんが創った木片の御札の束が飾られていた。呪文を唱えてから適当な御札を3枚めくり、札の裏に書かれている言葉をつなぎ合わせると運勢が判るという占いゲームのようなものだ。
天井からは古ぼけたランプとドライフラワーがぶら下がっている。雨の中、信州の田舎から運んできた大木の切り株がテーブル代わりだったが、濡れて水を吸い込んだ切り株はとんでもなく重く、大人3人がかりでやっと持ち上げ、それこそ命がけで地下の店内に運び入れた。カウンターも木製の手作りにしたが、椅子は節約のためレストラン時代のものをそのまま使うことにした。その革張りの椅子がいかにも不釣り合いなので、飾り柱を何本か立ててみたが、その結果、柱に頭をぶつける人が続出、不評だった。
入口は山小屋風の店構えにするために、路地に面した外壁に、縦割りにした丸太を張り、レストランの置き土産の大きなまな板に、自分で「生聞居酒屋・次郎吉」とノミで彫った看板を掲げた。生聞は、生で聞く、つまり自分なりのライブ(Live)の直訳だ。憂歌団のライブ・アルバム、「生聞59分」というタイトルはこの看板の文字をそのまま借用して付けられたものだ。やっと外装、内装が完成し、念願のライブハウス「次郎吉」が開店にこぎつけたのは、工事開始から約1ヵ月後の1974年2月1日だった。
「次郎吉」という店名の由来を今でもよく聞かれる。その頃は、横文字の名前の店が多かったので、かえって日本語のほうが目立つし外人受けもするのではないかと思ったのだ。もちろん日本を代表する大泥棒、ねずみ小僧の次郎吉を意識して付けた名前で、言葉の響きもいい。電話帳を調べると、次郎長はあったが次郎吉という店名はひとつも見あたらなかったので、これで決まり!ということになった。この名前はとても気に入っているのだが、銀行で名前を呼ばれた時、他の客が「次郎吉さんって誰?」といった感じで辺りを見回すので、 立ち上がりづらかったということが何度もあった。
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開店はフォークで。(1974年2月1日)
開店初日のライブのブッキングは吉祥寺のマッチボックスという事務所に頼み、当時のフォーク界の人気スター、高田渡、西岡恭蔵、友部正人、大津あきらが出演したが、この日、大津あきらのバックで演奏していたのがまだ十代だった坂本龍一だ。昼、夜、2回のステージはどちらも満杯で、好調なスタートにスタッフ全員ほっと胸をなでおろしたまではよかったのだが、ほっとしすぎて気が弛んだのだろう、ミュージシャンのギャラを店に来る途中で落とし、泣く泣く知り合いに借りる羽目になるという頂けない落ちがついてしまった。
関西ブルース・パワー炸裂(イエロー・ブルースの誕生)
開店当時はミュージシャンの数も少なく、ライブは週末だけで、平日はパブとして営業していたのだが、客足はさっぱりだった。というのも、アングラ風の入口のドアを開けると、地下に向かって両側にアングラ劇団やコンサートのポスター、チラシが貼られた薄暗い階段が続いているので、普通の人間、特に若い女の子はまず敬遠して入ってこないのだ。そのうちに高円寺、阿佐ヶ谷周辺に住んでいる若い漫画家集団とヒッピー連中のたまり場になり、一般客はますます入りにくくなってしまった。打開策として昼にランチを出してみたが、いつもの顔ぶれが昼間からたむろするようになっただけだった。
そんな時、希望の光になってくれたのが、京都の若者を中心に関西で起きたブルース・ブームだった。
京都ではウェストロード・ブルースバンド、ブルースハウスが2大人気ブルースバンドとして活躍。大阪では憂歌団が活動しはじめていた。
ジャズ喫茶以外なかった東京にも、下北沢の「ゼム」、高円寺の「シットバック」、西荻「ロフト」、新宿の「セラヴィ」など、ブルースが聞ける店が出来はじめ、音楽関係者もブルースに注目しはじめていた。
最初に「次郎吉」に登場した関西のブルースのバンドは、ウェストロードを離れた山岸潤史のセッショングループだった。
メンバーは山岸(ギター)、砂川(パーカション)、チュウ(ベース)、ベーカー(ドラムス)、北京一(ヴォーカル)、国府(キーボード)だった。
この山岸のグループが発展して出来たのが、日本人ブルース・ソウルバンドとして初めてアメリカ・レコーディングの快挙を果たしたソーバッド・レビューだ。
山岸談:「最初に次郎吉に出たのは75年の5月頃や。ウェストロードはもうやめとったから自分のバンドで出たはずやな。ウェストでは次郎吉に出てないよ。俺、75年の8月11日にアメリカに行ったんやけど、次郎吉のスケジュール表に「山岸、砂川渡米記念、7月連日出演」って書いてあるんや。でもその頃は京都におったんやで、どうやって連日出演できるちゅうねん!よう考えたら次郎吉でマスターの次に古いのが俺やな。ワオさんより古いんやで」
次に、「マガジン1/2」のマスターとして関西のブルース・ミュージシャンを呼んだ経験のあるチュチュのコネで声をかけたのが、京都を中心に学生たちに圧倒的な人気を持っていたウェストロード・ブルースバンドだ。
75年、キャラバンカーで乗り込んできた彼らの演奏は、荒削りだが、東京のミュージシャンたちにはない迫力と熱気、そして何より泥くさい魅力に溢れていた。
「ノってくれるまで帰さへんでえ!」的な気合、サービス精神、プロ根性。どこから聞きつけたのか宣伝もしないのに店は若者客でいっぱいになった。
こりゃすげえ。ブルースが何かも俺にはよくわからなかったけれど、ハングリーでファンキーな関西ミュージシャンたちがすっかり気に入ってしまい、「これや、これが音楽や!」とばかりに、次々に関西の人気ブルースバンドに声をかけるようになった。交通費を節約する為に、ワゴン車にメンバーと機材がすし詰め状態。俺の狭いアパートは貧乏関西ブルースメンの無料宿泊所と化し、常に関西弁と洗濯物で溢れていた。
ウェストロードの次に呼んだのは、「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」と「憂歌団」だった。初めて日本語のブルースのレコードを出した浪花のアコースティック・ブルースバンド、憂歌団のデビュー・シングル「おそうじオバチャン」は発売後、1ヶ月足らずで放送禁止になったにもかかわらずブルース系のシングルとしては大ヒットし、「次郎吉」、吉祥寺の「曼陀羅」、「のろ」、新宿「ロフト」、「ヘッドハンター」などが競争で呼ぶようになり、東京にも本格的にブルースの種がまかれることになった。
その頃京都では、現在もライブハウスの老舗として健在の「拾得」、「磔磔(たくたく)」、続いてオープンした「サーカス・サーカス」、「京大・西部講堂」がブルースマンたちの活動拠点になっていた。ミュージシャンの大半は同志社大学を中心とした京都の学生で、東京出身者はブルースハウスのギターのハッチャン(服田洋一郎)とベースのモッチャン(森田恭一)ぐらいで、後は全員、九州、四国を含めた名古屋以西の人間で占められていた。名古屋にも「オープンハウス」という店があって、近藤房之介や、尾関ブラザースが活躍していた。
76年~77年にかけて、アメリカから黒人ブルースマン、スリーピー・ジョン・エスティスとハープのハミー・ニクソンのコンビ、ロバート・ジュニア・ロックウッドとジ・エイシズが来日。第1回ブルース・フェスティバルに出演、大成功をおさめた。
スリーピー・ジョンとハミー・ニクソンは78年に再来日、憂歌団と全国ツアーし、次郎吉にも出演している。
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ナベサダとジャズ
渡辺貞夫さんとの出会いは次郎吉開店前にさかのぼる。一時期芸能関係の仕事をしていた姉が貞夫さんと間接的な知り合いで、ライブハウスをやるのなら一度挨拶に行きなさいとアポイントをとってくれたのだ。貞夫さんは、「ライブハウスなら、グランドピアノが絶対に必要だよ」とアドバイスしてくれたので、オープンに間に合うように、当時はなかなか手に入らなかったグランドピアノをローンで買うことになった。
そんなことで次郎吉に興味を持ってくれたのだろう。開店後まもなく貞夫さんから出演オーケーの連絡が入った時は大喜びしたが、当時の貞夫さんのライブは今のような軽めのサウンドではなく、4ビート、8ビートのジャズで、月一度のライブも20~30人程度の入りが続いた。貞夫さんの音楽が急激に変わりはじめたのは76年、FM東京が次郎吉で公開ライブをした頃からだ。
公開録音ということで、店はほぼ満員、友人知人常連も押しかけ、和気あいあいとした雰囲気の中で、貞夫さんもいつになくリラックスしていた。ステージの前半はジャズで、客席も静かに聞き入っていたのが、中盤の「黒いオルフェ」から始まったサンバ・メドレーで一気に火がついた。情熱的なサンバのリズムとビートに乗ったナベサダの心地よいアルトサックスのソロに酔った客は、いつのまにか全員総立ちで踊りだしていた。スタッフはあわてて椅子を片づけ、客席はダンスフロアに一変、リオのカーニバルの縮小版のような光景が繰り広げられることになった。アンコール、アンコールの拍手と歓声は鳴りやまず、締めにアフリカ民謡「マライカ」をスワヒリ語で全員で大合唱、やっと幕を閉じることになった。このライブを� ��機にナベサダ・ブームが巻き起こり、貞夫さんはこの年に芸術祭大賞を受賞している。その後しばらく貞夫さんは頻繁に次郎吉に足を運び、若手のブルース・ソウル系ミュージシャン、特にCちゃん・ブラザースとのセッションを通じて新しいサウンドをつくりあげていった。
いわゆるフュージョン系のポップ・ジャズ・サウンドである。資生堂の専属モデルとしてテレビのコマーシャルにもたびたび登場、瞬く間にビッグになった。
レギュラー・スタッフの確立( ワオ&チビタ)
熱狂的な平和はどのように私からビデオをダウンロードすることができます
現在もスタッフで最長老のワオ(桑原和夫)を次郎吉に連れてきたのは、スケジュール表のイラストを描いていたデンさんだ。ミキサーの学校を卒業したばかりだというので、ミキサー候補生として、大通りを隔てて向かい側にある喫茶店(フレンド)でさっそく面接してみた。当時19歳のワオは長髪を肩まで垂らし長谷川きよしにそっくりだったのをおぼえている。この時はこっちも昼間から夜中まで働きづめで、風呂にも1週間に一度しか入れない状態だった頃で、冷たいおしぼりで顔と首を拭くと真っ黒に染まったのを見てワオは仰天していたものだ。ミキサーとして雇われたワオはそれから四半世紀以上、次郎吉とともに過ごすことになった。初めはくそ真面目でミキサーの仕事が終わるとさっさと帰ってしまうので、桑原さん� �呼ばれていたが、1年後の自分の誕生日の夜にへべれけに酔っぱらい「今日からワオって呼んでね。ワーオッ!」と叫んで、以来このあだ名が定着している。
次郎吉で一時代を築いた伝説の女性、チビタが登場したのもこの頃だ。ある歌謡曲の歌手のマネージャーをやっていたというチビタは、ギャラをくれない熱海のヤクザのところに押しかけて直談判、もらえるまでは帰れませんと居直って見事に全額取ってきたという男まさりな逸話の持ち主で、愛称通りに身体は小さいが、声のでかさと度胸とバイタリティで次郎吉一家をしきっていた。
ライブ中は腰を振り手拍子を叩きながら、奇声をあげてミュージシャンを盛り上げてくれる。ライブが終われば一人一人の客に声をかけて、店に残って一緒に飲みましょうよと誘う。帰っていく客には「また来てくださいね」の一言も忘れない。気さくで、あけっぴろげで、いつも明るく元気なチビタはあっという間に人気者になり、彼女を慕って店の常連になる客も多かった。特に若い女性客たちには、ひと回り年上のチビタは絶大な信頼を得ていた。
何よりも嬉しかったのは、チビタに声をかけられた有名な女優やモデルが遊びに来るようになり美人の常連客が増え、店内が華やいだ雰囲気になってきたことだ。
「次郎吉に初めて来たのはネイティブ・サンのライブの時なの。ライブの後、チビタさんに誘われてミュージシャンと一緒に朝まで飲むことになって。洗礼を受けたって感じかしら。楽しくって、楽しくって、それからやみつきになっちゃったのよ。あの時チビタが声をかけてくれなかったら、もうこの店に来ることはなかったと思うわね」
今でも時々、遊びにきてくれる女性客の一人はそういう。
ライブとは関係なく、チビタに恋や人生の悩みごとの相談に店にやってくる女性客も多く、「高円寺の母」とさえ呼ばれるようになった。
奇人、変人、名物客
女性客の増加と同時に増えていったのが、奇人、変人の類だ。中でもハンチングをかぶり、風呂敷包みをかかえてやって来るオカマのおじさんは傑作だった。「トイレ借りるわね」と言い残してトイレに消えたおじさんは20分ほどすると、スカートをはき、カツラをかぶって再登場する。気合いの入っている時は、付けまつげまでしてくる。そして、シナをつくりながらステージに立つと、(ライブのない時に店が閑散とした雰囲気に見えないように吊ってあった)蚊帳の中にもぐり込んで踊りはじめる。年は50代という話だった。
他にもスタッフの間で、三大おばさんと呼ばれている名物客がいた。まずはサンバ関係のバンド、特にサンバ・カリオカのライブには必ず顔を見せ、ライブ中ずっとサンバを踊っているサンバおばさん。そしてコスモス・ファクトリーで必ずギターのまん前に座り、一曲終わるごとに立ち上がって拍手するプログレ・ロックおばさん、そして、ジャズのライブにはどこからでも必ずやって来たジャズおばさん。三人とも50歳前後だったから、今では80歳位のおばあちゃんになっているはずだが…。
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最初のセッションバンド、 Cちゃんブラザーズ
いろいろなバンドを聞いているうちに、バンドとは無関係に気に入ったミュージシャンだけを組み合わせた自分なりのスーパーセッションを聞きたくなってきた。はじめての相手と演奏すれば、音楽的にも互いに刺激になるし、次郎吉だけでしか聞けない組み合わせの演奏が聞けるのだから、音楽にうるさい常連客も喜んでくれるはずだ。すぐに気に入ったミュージシャンに直接電話して次郎吉セッションを組むことにした。最初のセッションの中心になったのは元サウス・トウ・サウスの初代ドラマーのCちゃん(井上茂)だった。Cちゃんのドラムを初めて聞いたのは、次郎吉でのサウスのライブの時に遊びにきていたCちゃんが途中で飛び入りし、ドラムを叩いた時だった。センスのいいドラミングと乗りのいいビートに一発で惚� ��込んだ俺は、アメリカから帰ってきたばかりで、住む場所も音楽の方向性も決まっていなかったCちゃんに、東京で活動をするように強く勧めた。Cちゃんが上京を決意した時には、大阪まで車で引っ越しの手伝いに行き、帰りにフトンを積んできたのを憶えている。
上京したばかりのCちゃんを盛り立てるために、毎月、Cちゃんを中心にしたセッションを組むことにした。Cちゃんはこのセッションで自分のオリジナル曲も実験的に演奏しはじめた。「Cちゃん・セッション」は、粋なセンスのサウンドとビートですぐに固定客をつかみ、次郎吉の呼び物の一つになってきた。流動的なセッション・メンバーが固定化してくると、バンドを結成するべきだという声がまわりから出はじめ、やがて出来あがったのがCちゃん・ブラザースだ。
メンバーは、元サウスのCちゃん(井上茂)、元サウスのクンチョー(堤和美、リズムギター・ヴォーカル)、元ウェストの塩次伸二(リードギター)、元ウェストの薩摩光二(サックス)、元ミューテーションのダッチ(増岡正、
パーカッション)、リュージ(宮内、キーボード)、宇塚隆二(ベース)という顔ぶれだ。ミューテーションというのは、大阪でCちゃんがリーダーをしていたソウル・ディスコバンドだ。このメンバーに、渡辺貞夫、森園勝敏、大村
憲司といったジャズ、ロック畑のミュージシャンが参加してよくセッションをやっていた。このようなジャム・セッション形式のライブは当時まだ珍しく、お客もミュージシャン自身も新鮮な刺激を受けた。
実は最初の頃はほとんどのメンバーが関西にいたので、「次郎吉セッション」のたびに車で東京に出て来ていたのが、そのうちに一人、また一人と東京に引越して来た。こうして「次郎吉セッション」はますますにぎやかになり、次郎吉の名物となった。
アフターアワーズの楽しみ 真夜中の次郎吉セッション
ライブも終り、やっと店が落ち着いてくる11時過ぎになると、常連や仕事帰りのミュージシャン達がいつのまにか集まってきて飲み始める。カウンターでは本田さんのグループが焼酎の一気飲みで盛りあがる。一晩中、ダーツに狂っている連中もいた。ある晩、ふらっと顔を出したCちゃんが飲み物を頼んだ後、カウンターで取り巻きと大酒をくらっていた本田さんをちらっと見てからステージに向かって歩きだした。そして静かにドラムセットを組み立てチューニングを済ませると、黙々とビートを刻みはじめた。誰が聞いているわけでもない。
一緒に演奏する人間がいるわけでもない。それでもCちゃんは額にうっすらと汗を浮かべ鬼のような顔で、力強くビートを刻み続けている。はじめは気にしていなかった本田さんも、ノリのいいビートとサウンドに引き込まれ、真剣な顔で聞きはじめた。Cちゃんは、ドラムで本田さんに勝負を挑んでいるのだ。
受けて立たぬはミュージシャンの恥、本田さんも遂に立ちあがりピアノに向かった。そしてすぐにはじまった火花を散らすようなジャムセッションを、店にいた人間は息をつめて見守っていた。
ジャムセッションはいつもこんな風に突然はじまったが、ライブハウスならではのミュージシャンたちの真剣勝負を見ようと、深夜になると顔を出す客も多かった。
「次郎吉はミュージシャンの好きなようにやらせてくれる場所や。勝手にセッティングしてようやってたわ」と山岸潤史はいう。「相手がおらんでも、一人だけでやったっていうのは、Cちゃんと本田さんと俺くらいやな。次郎吉に泊まったこともあったけど、真っ暗で怖かったな」
本田さんは、「セッションで印象に残ってるのは、Cちゃん」だったという。「俺、ポップな8ビートが大好きなんだ。Cちゃんはぴったりハマってたね。あとは山岸とか入道とかね。よく朝まで飲んだりセッションしたりしてたよ」
閉店まぎわの空っぽの店で、ニューヨーク帰りのジャズピアニスト、プーさん(菊地雅章)がさりげなく弾きはじめた「グリーン・スリーヴス」も涙が出そうになるほど感動的だった。こんな深夜のハプニングに頻繁に遭遇できるのがライブハウスのマスター、スタッフ、常連客の特権だろう。
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2章 地下から飛び出せ!
第一回「次郎吉泥棒公演」
オープンして1年を過ぎ、経営は順調とはいえないまでも、なんとか軌道に乗ってきたが、毎日、毎晩、タバコの煙と酒の匂いにまみれながら、暗く狭苦しい地下の店でライブを聞いていると、たまには健康的に広々とした場所でコンサートでもやってみたいという気分になってくる。もっと大勢の人に楽しんでもらえるし、店の宣伝にもなる。大人数を収容でき、自由な雰囲気でライブを楽しめる場所を探しはじめると、まさにぴったりなのが、大映調布スタジオだった。1500人は楽に収容できる映画撮影用の大きなスタジオで、天井は高いし、音響、照明の設備も整っている。もちろん屋根もあるから雨でも大丈夫だ。
すぐに憂歌団、ウェストロード、そして次郎吉セッションから生まれたCちゃんブラザースにゲストとして渡辺貞夫が加わるという構成を決めた。泥臭いカントリーブルースやコミックソングを日本語で歌う憂歌団、ブルースにソウル色が加わってきたウェストロード、そしてフュージョン・バンドの走りだったCちゃん・ブラザースとジャズ界の人気サックス・プレーヤー、渡辺貞夫の共演、考えられる最高の組み合わせだ。貞夫さんも当日の昼間、名古屋で仕事があるというのに快く引き受けてくれた。
当日、会場にいくと、何の撮影があったのか、壁と天井は、ところどころに白い雲の浮かぶ一面の青空に塗り変えられ、まるで野外コンサートのような明るく広々とした空間ができあがっていた。自由に立ちあがって踊れるように、客席には椅子は置かず、ステージの前にムシロを敷いた。新鮮な企画と豪華な顔ぶれが効を奏して1000人近くの観客が集まり、レコード屋の出店(吉祥寺ジョージア)や酒や食べ物を売る屋台も開演前から大にぎわいだった。
憂歌団、ウェストロードの熱演で会場は大盛り上がり、トリのCちゃん・ブラザースとナベサダのセッションを今や遅しと待ちわびている。 そんな中、俺は開場の入口でそわそわとある人を待っていた。その人物とは…貞夫さんだ!
貞夫さんはCちゃんたちの演奏がはじまってもまだ到着していなかったのだ。演奏は進み、最後の曲が終わってもまだ来ない。人生最大のピンチ、ステージで土下座か? と思った時、貞夫さんが飛び込んできた。「どうだいマコ、盛りあがってるかい?」
「ウォーッ! イェーッ!」という大歓声の中で、ナベサダが登場。華麗なサックス・ソロとCちゃん・ブラザースのノリのいいサウンドが絡み合う。ミュージシャンと観客が完全に一体となって揺れている。照明のウエキちゃんはステージを虹色に染め幻想的な雰囲気を作り出している。音楽を通じてステージのエネルギーと客席のエネルギーが衝突し、混ざり合い、もっともっと大きなエネルギーに変わっていく。客席からはいつまでも「アンコール!」の声が鳴りやまない。
感動的なフィナーレでコンサートは無事終了したが、ステージが空っぽになった後も、いつまでも夢見心地のままムシロの上に立ちすくんでいる客が何人もいた。名古屋から駆けつけてくれた貞夫さん、ありがとう。貞夫さんが来るまで演奏を続けてくれたCちゃん、ありがとう。一番感動しているのはこの俺かもしれない。
後日収支を計算すると数十万円の赤字。ま、これだけ楽しんだのだから安いものか、と前向きに考え、昼間の土方のバイトに精を出した。
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ネイティヴ・サンの誕生 (1977年)
Cちゃんのバンドにゲストとして本田竹広や峰厚介が出演した時、大出元信(ギター)、川端民夫(ベース)が遊びに来て加わり、ご機嫌なセッションになった。
このセッションで新しい何かを感じた本田さん達は何度もセッションを繰り返し、これに村上寛(ドラム)や福村博(トロンボーン)が加わり自然にできたバンドが、やがてネイティヴ・サンになった。4ビートのジャズにこだわら
ず、サンバやラテンのリズムを取り入れた新鮮なサウンドのオリジナル曲を次々に発表したネイティヴ・サンは、マクセルのCM曲の大ヒットで一躍人気グループになった。日本でのフュージョンやクロスオーバー・ブームに火をつけることになったこの曲は、パチンコ屋でもかかるほどヒットして、79年のアルバム「NATIVE SON」はジャズ系のレコードとしては異例の30万枚を売ったという。
毎月1、2回やっていた次郎吉でのライブには、レコードを聞いてファンになった客が沢山来ていたが、生まれて初めてそれも次郎吉のような狭い店で聞く生演奏の音量と迫力に度肝も抜かれている人も多かったようだ。
ネイティヴ・サンは余勢をかってアフリカにも遠征、帰国後に田園コロシアムで行われた凱旋コンサートのステージの背景をアフリカ旅行の時撮影したビデオ映像が飾ることになった。
毎月末恒例、バースデイ・パーティ のスタート(1978年)
月に1度の深夜の誕生日パーティはかれこれ20年以上続いた。
その月生まれの客、スタッフ、ミュージシャンがステージに呼び出され、「 ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー」の合唱をバックにケーキのローソクを吹き消し、ワインで乾杯する。「おめでとう」の声と拍手をキューに、スティ
ーヴィー・ワンダーの「ハッピー・バースデイ」がかかる。その後は、従業員バンド、スケアクロウの演奏、そしてミュージシャン、客が入り乱れてのジャム・セッションへと続き、朝まで飲めや歌えの大ドンチャン騒ぎが繰り広げられるのだ。
もともと酒豪が集まっている次郎吉では、毎晩ライブの後に、本田竹広を中心に朝まで飲んでいることがほとんどだった。楽しく飲むには口実が欲しいというわけで、常連やミュージシャンの誕生日を肴に飲んでいただけなのだが、連れや彼女、その友だちとその数が増えてきて、毎日パーティをやらなくてはいけないようなことになってきた。面倒だ、月1度にまとめよう。ということで始まったのがバースデー・パーティだった。
ライブが終わって片づけを済ませた後なので、始まるのは早くても11時半、遅い時は深夜1時過ぎになる。
このパーティを盛り上げるために、チビタを中心にスタッフとその友だち連中が多彩な素人芸を披露するようになり、これがまた名物のひとつになった。
チビタの親戚のマリチャンが棒の先にくっつけた紙の月を持って立っている前で、ちょんまげに口ひげをつけたチビタが、かつらをかぶったバイトの青学生、アベショーを高下駄で蹴飛ばす「勘一・お宮」の寸劇、ピンクレディの「UFO」や郷ひろみと樹木希林の「林檎殺人事件」の物真似といった出し物は、酔っぱらった客やミュージシャンの大喝采を浴びていた。
恥を覚悟で必死に店を盛り上げてくれるスタッフには涙がでるほど感謝していた。でも、せっかくライブハウスで働いているんだ。そこまでやる気があるのなら、いっそのこと従業員でバンドをつくったらどうだろう。といってもまともに楽器を弾ける者がいないので、ギタリストを目指している常連客のノブにバンドのまとめ役を頼むことになった。
従業員バンド、スケアクロウ結成!
こうしてなんとか出来上がったのがスケアクロウ(かかしの英語名)だ。バンド名は、ネイティヴ・サンが当時、大ブームになっていた沖縄旅行で親しくなった与論島の飲み屋の名前から取ったもので、マスターのトミーは次郎吉にも何度か遊びに来てくれた。スケアクロウの初代メンバーは、ノブ(ギター)、チビタ(ヴォーカル、トランペット)、ワオ(ドラム)、グッチ(パーカッション)、デンさん(ベース)、ズレ子(フルート)、そして後に峰厚介と結婚するサスケ(ピアノ)で、ノブの指導のもと毎晩ライブが終わった後に朝まで猛練習を続けた結果、何とかバンドらしくなってきた。ときどき止まるリズム、チビタのでかい声、恥を捨てた化粧や衣装。コミックバンドを目指していた訳ではないが、客席は大爆笑。普段� ��ライブより客が多いなんていう月もあった。
歌詞今どれだけ早くチャームテーマです
やがて仕事帰りのミュージシャン、楽器を弾ける客たちがスケアクロウの演奏に参加するのが恒例になり、プロ、アマが入り混じり、十数人が交替でステージに立って数時間のセッションを続けることもあった。水かけ合戦(ナベサダのライブの時に水を掛けあったのが最初だ)が大流行したのもこの頃だ。最後はバケツで頭から水をかけあうまでにエスカレート、胸の曲線をあらわにして踊り狂うTシャツの女の子たちを見て男たちは大喜び、毎月、最終土曜日の深夜だけは異常な興奮に包まれていた。酔っぱらったチビタがノブのギターに合わせて歌い出して、自然にできた「酔いどれ男」は幻の名曲だ。「今日もオイラは起き出して・どこに行くのか知らないが・身体がうずうずしてくるぜ・昨日のあの娘はどこにいる・あいつに� ��ようぜ気になるぜ・あいつだ・あいつだ・オレのもの・きっと落としてみせるんだ」
この曲は、スケアクロウがネイティヴ・サンの前座で次郎吉に出た時に、チビタが熱唱し、やんやの喝采を浴びたという伝説を持っている。 こうして閉店前の4時5時(深夜というよりはもう朝)になると、べろべろに酔っ払い、びしょぬれになった客達は、自分達のまいた水やゲロをきれいにモップがけしてから、スタッフとともに「くまぼっこ」に流れ、ラーメンを食べてからやっと家路につくのであった。
78年には、フリーキー・オールナイト・コンサート・アット・ムーヴィー山小屋を皮切りに、高円寺東映でCちゃん渡米コンサート、上田正樹やネイティヴ・サン、ブレイクダウン、永井隆とブルーヘブン、南正人と立て続けに次郎吉の外でコンサートをやっていた。ライブのアイディアがどんどん湧いてきて、いくら働いても疲れなかったあの頃、若かったんだなあ。
ジミー・クリフの来日
次郎吉に初めて来た外タレは、イギリスのレゲエバンド・シマロンズだ。
彼らが来日した1975年というのは、ボブ・マーレーの来日以前で、一般の人はレゲエという音楽の存在自体を知らず、日比谷野音でのコンサートの動員は200人足らずだったという。呼び屋さんのビートとグレッグは次郎吉の常連で、昼間のコンサートの後、シマロンズのメンバーを連れて次郎吉に遊びに来てくれた。生まれてはじめて聞くナマのレゲエは、強力なインパクトを持っていた。
次にやってきたのはジミー・クリフだ。映画「ハーダー・ゼイ・カム」の主演に抜擢され、サントラ盤も大ヒット、一躍レゲエ界、というより反体制派の若者たちのヒーローになった。ライブを次郎吉でやったわけではないのだが、彼らは羽田からリハーサル場所として借りていた次郎吉に直行し、すぐにリハを開始、本番さながらの集中力で何時間も演奏するメンバーたちのスタミナは並みの人間ではない。パーカッションの若い黒人が力あまってスティックを折ってしまい、慌ててモップの柄を削って代用品にしたことや、ギターかベースを弾いていた若いミュージシャンには指が6本あったことを思い出した。
レゲエのアーティストは宗教上の理由で、食べられる物に制限があるので、バンド専属のコックが同行していた。香辛料の匂いがものすごいので宿泊先のホテルで調理することができず、本田さんの家の台所を借りることになった。
コックは朝から本田さんの家で仕込み、夕方になるとマイクロバスでメンバーが本田さん宅に到着。近所の人たちが好奇の視線を送る中、赤・黄・緑のラスターカラーにラスターヘアのカラフルなレゲエの一行がどかどかとアパートの階段を上って行く。俺もちゃっかり同席させてもらい、見たこともない香辛料をふんだんに使った、アイタル・フードと呼ばれる本物のジャマイカ料理を試食するというオイシイ体験をした。
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3章 80年代に突入
第二回次郎吉・泥棒公演
関根サーカス・テント・ライブ (1980年4月18日)
関根サーカスの支配人から、京王線、聖蹟桜ヶ丘の駅前での公演中にテント・ライブをやらないかという話が持ち上がった。土の匂いがするテントの中は、少年時代の郷愁が蘇ってくる不思議な空間で、天井が高く、音の反響も少ない。
客席は板張りベンチで1500人の収容力があるという。コンサート会場としても最適。そう考えるといても立ってもいられない。すぐに、憂歌団と、ネイティヴ・サンに連絡を取り、出演オーケーの返事をもらった。が、問題はそれがコンサート予定日の1ヵ月前だったことだ。当たり前だが、1ヵ月前では月間の情報誌に掲載することは不可能。ポスターを作る時間すらなく、ピエロの顔をアップにした関根サーカスのポスターを譲り受け、その隅に「次郎吉・泥棒公演Vol.2」、出演者、日時、場所を印刷したステッカーを貼って使うことにした。なんとかチラシだけは印刷し、スタッフ、関係者を総動員して、聖蹟桜ヶ丘の駅前や、付近の学校、商店街でまいた。
公演当日、さすがに宣伝不足が響いて、売れた前売り券は600枚足らず。
おまけに公演日の10日前から降り続いていた雨が止んだのは前日の明け方、テントのまわりには大きな水たまりがいくつもできていた。これでは当日券の売れ行きも期待できない。人気バンドの憂歌団、ネイティヴ・サンをがらがらのテントで演奏させることになっては申し訳ない。開演時間が近くになって、スタッフを近くの高校に行かせ、学校帰りの学生たちに無料でチケットを配り、テントまで誘導するという非常手段に出た。最寄の八王子駅でも、最後の呼び込みと無料チケット配りをした。最終的に、ただ券組の数は約200人。不公平にならぬように、一般客が入場した後に入ってもらった。
午後6時、司会役のフランス人、ジャン・フレッドがサーカスの象の背に乗ろうとすると、象が突然「パオーッ!」と、場内に響き渡る大きな雄叫びをあげた。驚いたジャンは象に乗るのを諦め、象と一緒に歩いてステージに登場。
コンサートの開会を宣言し、フランス語訛りで「ユーカダン!」と叫ぶと、ステージ後方の垂れ幕から憂歌団のメンバーが飛び出してきた。憂歌団の演奏のクライマックスには、頭上高く張られたロープ上をピエロが自転車をこぎながら往復して紙吹雪を振りまいた。無数の紙吹雪が七色の虹の星くずのようにキラキラと光りながらゆっくりと舞い落ちていく光景は、憂歌団のメンバーまで思わず上空を見上げて見とれていたほど幻想的だった。この紙吹雪は、数時間前から開場を待っていたファン数人がサーカスのスタッフと一緒に切ってくれたものだという。憂歌団に、本田さんと峰さんが加わり、木村が歌った「ジョージア・オン・マイ・マインド」は忘れられない。
当初の予想通り、採算的にはまたまた大赤字となり、土方のバイトで穴埋めをするといういつものパターンにはまってしまった。
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10周年記念!
貸し切りの遊園地で野外コンサート
「でめた」(1984年)
めでたく誕生から足かけ10年を迎えることになったこの年、区切りのいいところで思い切り派手なお祭りイベントをやりたくなった。となるとまず必要なのは次郎吉の開放的な雰囲気をそのまま持っていける自由で広い空間だ。
いくら音響的に素晴らしくてもコンサート・ホールのような椅子席ではライブハウスのようなくつろいだ気分にはなれない。いい空間を見るとコンサートのイメージが自然に湧いてくる。鈴鹿サーキットが多摩丘陵に経営する遊園地、多摩テックは、太陽を浴びながら家族連れで楽しめる野外コンサートをするのに、まさに理想的な会場だった。
思い込んだら命がけ、コネがなくても飛び込んでいくのが俺のスタイルだ。
タイトルとミュージシャンの名前だけ書いてある超シンプルな企画書を手に一人で多摩テックの事務所に乗り込んでいった。事務所側は、突然、飛び込んできた口ひげをはやしたいかつい男を見てその筋の人と勘違いしたのか、最初は丁重に断わられてしまった。めげずに2度、3度と足を運ぶうちに、窓口になってくれたイベント担当の菅原さんがその気になってきて、遂に「荒井さん、やるからには勝ちましょう」といって上司の説得に乗り出してくれた。家族連れで楽しめるように子供は無料、託児所をステージの横につくる、フリーマーケットの出店を出すという新しいアイディアを加え、念願の野外コンサートがついに実現することになった。
10周年ということで、スケジュール表のイラストを描いているデンさんにデザインを頼み、大型ポスター、記念Tシャツをつくることにしたが、「次郎吉」という漢字のロゴがTシャツにするとしっくりこないというので、思い切って「JIROKICHI」という毛筆体のローマ字に変えてみることにした。これが意外に好評で、以来、次郎吉のロゴ、店の看板はローマ字になった。
コンサートのタイトル、「でめた」は、おめでたい人間が集まって、めでたい行事をやるという意味が込められている(込める程の意味でもないが)。だったら「めでた」でもいいのだが、そのまんまなので、ちょっとひねってみました。
ポスター貼りは大仕事
今では道交法が厳しくなったせいでほとんど見かけないが、昔はコンサートの宣伝といえばまずは街頭でのポスター貼りだった。ボンネット、ドア、屋根にまでポスターを貼った車で、連日連夜、ポスター貼りに繰り出したのはいいが、ある日、調子に乗って高幡不動の駅前に停まっていた大型バンの横と後ろのドアにポスターを貼ってしまった。多摩テックに不審な電話が入ったのはその日の夕方だったという。「おたくかい? うちの車にガムテープでポスター貼ってくれたのは?」わけが判らない多摩テックの社員が適当にあしらおうとすると、相手は豹変して「とぼけんじゃねぇ!」と怒鳴りだした。まずいことにポスターを貼った車は、とある事務所の宣伝カーだった。慌てた多摩テックからすぐに連絡が入り、翌日、菅原さ� ��と一緒に多摩テックの乗り物券付き招待券を持って謝りに行き、なんとか事なきを得た。
当時、次郎吉の人気従業員だったドヤと甲州街道の沿道にポスターを貼っていた時にも大ドジを踏んだ。ポスターを何枚も並べて歩道橋からぶら下げるという名案(迷案?)を思いつき、二人で歩道橋の手すりにガムテープで貼りつけていると、いつのまにか一人の警官が階段の下に迫っていた。「やばい、逃げろ!」慌てて反対側の階段から逃げようとしたのだが、もう一人の警官が「挟みうちにしろ!」と叫びながら駆け上がってきて万事休す。歩道橋の真ん中であえなく御用となり、警察署に連行されてさんざん油を絞られた。始末書を書かされ、やっと釈放されたのは3時間後だった。
10日も前からお祭り騒ぎ
腕と体力に自信のあるスタッフと友人たちが多摩テック内のキャンプ場にテントを張って泊まり込み、ステージを組み始めたのはコンサートの10日前だった。女性陣も差し入れを持ってやってきて、交代でご飯炊きや掃除を手伝ってくれた。夜はキャンプ・ファイアを囲んで酒盛り、人気のない遊園地の一角に深夜まで笑い声が響き、お祭りムードはいよいよ高まってきた。
次郎吉にも、深夜過ぎになると常連客やミュージシャンが次々にやって来て、10周年の前祝いと称して連日、朝まで酒盛りをしていた。この頃から前売り券の売れ行きも急激に伸びはじめ、これに平行して次郎吉での馬鹿騒ぎも最高潮に達していた。
コンサートの当日、直前まで続いていた長雨が嘘のようにやみ、多摩丘陵の上空には朝から抜けるような青空が広がっていた。ステージのある小高い丘に続く、なだらかな山道にはフリーマーケットの店が次々に店開きし、アクセサリーや民芸品、古着などが並んでいる。午前中から客の出足も好調で、子供連れの客もゴーカートに乗ったり、ボート遊びをしたり、フリーマーケットをのぞいたり、思い思いに楽しみながら、のんびりとコンサートの開始を待っている。午後2時、博多のアマチュア芸人(本職は歯医者さん)ヤモリの司会で「でめたサウンド・エクスプロージョン」が幕を開けた。
まず登場した次郎吉のイベントの常連、憂歌団とウェストロードが期待通 りの熱演で大喝采、ウシャコダが解散記念ということで飛び入り出演した。続いて「悲しい色やねん」の大ヒットで一躍、歌謡界のメジャー・スターになったキー坊(上田正樹)が夕焼けをバックに登場すると丘の斜面の芝生に座っていた観客が総立ちになって踊りだした。とってもイイ雰囲気だ。俺は、ちょっとコンサート場を抜け出し、多摩テックの外周を走っている機関車に乗って、遊園地全体の様子を見にいくことにした。乗ってみると、さすが鈴鹿サーキットの経営する遊園地の機関車だけあって意外にスピード感がある。夕闇の薄暗い林を抜けてガタゴトと走っていく。夕空を見上げると明かりを灯した観覧車がゆっくりと回っている。すっかり童心にかえった俺は今度は観覧車に乗ることにした。ゴンドラが上がるにつれ眼� ��には360度の夜景が広がっていく。丘の周囲の田園地帯には、町の明かりが星空のように瞬いている。キー坊のステージはクライマックスを迎えていた。「Hold me tight…オオサカ・ベイ・ブルース…」 夜風に乗って聞こえてくるキー坊の歌声が心地よく、思わず観覧車を2周してしまい、慌ててステージに戻ると、トリの本田竹廣のスーパー・ジャズ・セッション・バンドが登場する直前だった。実は「でめた」の最後を締めくくるジャム・セッションを盛り上げるために、ミュージシャンには内緒で、ジャズと暗黒舞踏の共演という特別の演出が用意されていた。
ステージの袖から現れた舞踏家のカビンちゃん率いる不気味な集団に最初に気づいたのはサックスの向井滋春だった。客席のざわめきと異様な気配に、ふと横を見ると、眉毛のない白塗りの妖怪たちが腰布ひとつで床をはいずりながら近づいてくる。その数は増え、やがてステージいっぱいに広がり、演奏とは無関係に踊りだした。何ごとにも動じない本田さんもさすがに本気でオドロいていた。お客さんは、ジャズミュージシャンが驚く顔を見て大ウケだった(らしい)。
なにはともあれ、次郎吉10周年記念の大野外コンサートはめでたく幕を下ろすことになったが、例によってミュージシャンにギャラを奮発したおかげで、採算的には赤字になり、またまた肉体労働に精を出したのだった。
次郎吉名物・ジャズとモツ鍋のスーパーセッション(1985年)
銀座にモツ鍋の店が出現したのはバブル崩壊後の93年頃だと思うが、次郎吉には本場、博多から空輸された極上のモツを使った本物のモツ鍋が登場したのは84年だった。ミュージシャンは日本全国をまわることが多く、各地方の郷土料理を味わう機会にも恵まれている。そのミュージシャンの中でも、音にうるさいと同時に食べ物にもうるさいのがジャズ・ミュージシャンだ。
モツ鍋が次郎吉の名物になるきっかけを作ったのも、「でめた」で司会をつとめた博多の歯科医、ヤモリ先生に連れられ博多のモツ鍋屋にいき、そのファンキーでホットな味のやみつきになってしまった本田さんだ。東京でも本場のモツ鍋を食べたいと思った本田さんが、東京で歯科医学会の会合があったヤモリ先生に頼み込み、博多から持ってきてもらったモツを次郎吉に持ち込んだのが、次郎吉名物、モツ鍋の始まりだった。
最初のうち、モツ鍋は本田さんと仲の良いごく限られたミュージシャン、友人だけが味わえる幻の料理だった。本田さんは自分のキーボードを楽屋のすぐ横にセッティング。ライブ前に楽屋にカセットコンロを持ち込み、モツ鍋を仕込み、ライブ中(というか曲の演奏中)、他のミュージシャンのソロの合間に楽屋にひっこんで鍋をかきまわし味見をするほど入れ込んでいた。楽屋からあふれ出したニンニクの匂いがステージを抜けて店内に充満し、スタッフや客の食欲をそそっていたが、ライブ終了後も、出演ミュージシャンとごく内輪の関係者以外は楽屋に入ることも許されなかった。こんな理不尽なことが長く続くわけはなく、すぐにヤモリ先生に頼んで、博多から10キロもの新鮮なモツを取り寄せることになり、ジャズ・セッシ� �ンの打ち上げには必ずといっていいほどモツ鍋が登場することになった。作り方は簡単、新鮮なモツにニラをたっぷりと入れ、ニンニク、鷹の爪を加えて、醤油で味をととのえたら、後はじっくり煮込むだけだ。モツ鍋はいつも大好評で、今でもベースの岡田勉さんを筆頭に、打ち上げの頃になると、モツのにおいを嗅ぎつけてどこからともなく姿を現すジャズ・ミュージシャンが沢山いる。銀座の某ライブハウスが、本田さんの影響で遂にモツ鍋屋に転向してしまったという嘘のような本当の話もある。
にチアリーディングダンスを行うには良い曲
その後、モツ鍋がブームになってきた時に、某テレビ番組で、博多のモツ煮を取材したついでに次郎吉にもカメラを持ち込んだことがある。次郎吉の宣伝になるならと、もの好きな常連とモツ鍋のオーソリティの本田さんがかけつけてくれた。スタッフが慣れないインタビューに答えて店の宣伝をする一方、本田さんも「ジョージア・オン・マイ・マインド」を弾いて取材スタッフを歓待したのだが、不幸にもこの番組はお蔵入りになってしまった。
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4章 大型コンサートが目白押し
15周年記念ライブは 上々颱風!(1989年)
ハイネケン・ヴィレッジは原宿にほど近いテラス付きの粋なバー・レストランだった。ある日ぶらっと訪ねると、バー、レストランの他にもいくつかの小部屋、それに中庭まである2階建てのログハウスで、原宿にいることを忘れてしまうような落ちついた雰囲気の場所だった。
早速ハイネケンと交渉、15周年記念のコンサート会場に決定した。とはいってもコンサート会場としては狭く入場者数も限られている。いつものように複数のバンドを出演させるのは無理なので、次郎吉に出ていた新人バンドの中でも飛び抜けた存在だった上々颱風ひとつに絞ることにした。
当時はイカ天ブームの最盛期で、バンド人口が一気に増え、ホコ天や小さなライブハウスで演奏しているアマチュア、セミプロの新人バンドがにわかに脚光を浴びると同時にライブハウスが一般的にも認知されてきた。いわゆるワールド・ミュージック・ブームが始まったのもこの頃で、ロック、ポップス、沖縄民謡、音頭、昭和初期の懐メロを巧みに採り入れた上々颱風の人気はうなぎのぼり。次郎吉でも毎回150人近くを動員するまでになっていた。
メジャーデビューを控えた上々颱風の勢いもあって、前売り券はあっというまに売れ切れ、嬉しい悲鳴を上げた。 コンサートの当日は、晴れバンド上々颱風のお陰か、朝から青空が広がり、1月の末だというのにまるで春のような暖かさだった。会場内の中庭にはパオが建ち、フリーマーケットには外人のアクセサリー屋が並んでいる。屋台からはスパイシーなカレーの匂い、羊の丸焼き、異国に紛れ込んだような雰囲気がお祭り気分を盛り上げる。午後4時、スタッフ60という大道具造りの集団が造ったステージの花道に、きらびやかな衣装に身を包んだエミちゃんとサトちゃんを先頭に上々颱風が登場、満員の場内は一瞬にして興奮のるつぼとなり、拍手と歓声が沸き起こる。
通りからでもはっきりと聞こえる大音量の演奏に誘われ、通りすがりのカップルなどが続々と当日券を買って入ってきたので、一時は入場制限をするほどの大混雑。満員御礼。ギャラの心配をしなくていいコンサートは初めてだ。本当にビールがうまかった。
ヴァレリー・ウェリントンと 兄貴分のビリー・ブランチ (1990年)
シカゴから来たヴァレリー・ウェリントンは迫力満点のハスキーヴォイスで本物のシカゴブルースを聞かせてくれた。日本びいきで、なぜかちくわが大好きなヴァレリーに、よくちくわを買ってあげた。日本の歌も大好きで、憂歌団の「嫌んなった」や坂本九の「上を向いて歩こう」をヴァレリーが歌うと、日本語で歌っているのに、なぜか泥臭いブルースになってしまう。その迫力に客席からどよめきがおこったものだ。シカゴのブルース・フェスティバルを見に行った時には、ヴァレリーと彼女の兄貴分のブルース・ハープの達人、ビリー・ブランチにすっかり世話になった。ビリーは何度も来日しているが、来るたびに次郎吉に顔を出し、山岸や他のブルース・ミュージシャンとのセッションを楽しんでいた。新宿のホテルに送っ� ��いく途中のタクシーの中で吹いてくれたブルース・ハープの音色が今でも耳に残っている。ブルース・ハープといえば、ローリング・ストーンズのレコードに参加して一躍、有名になったブルース・ハープのシュガー・ブルーも妹尾ちゃんが次郎吉に連れてきてくれた。この他シカゴからエディ・クリアウォーターが来日。ジロキチに出演してくれた。
山岸は、ネヴィル・ブラザースのドラムとベースを連れて遊びにきてくれたが、二人ともタフで何時間もセッションを続けていた。
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17周年記念「でめた91」
ニューオリンズからの特別ゲスト、アル・ブラサード(1991年)
この年の初めに、ニューオリンズに遊びにいった次郎吉の女性客が、おみやげに1本のカセット・テープを持ってきてくれた。バーボン・ストリートの小さなクラブでピアノの弾き語りをしている黒人ミュージシャンのテープだというので、さっそく店で聞いてみた。軽快なブギウギ・ピアノが流れ出すと、店の中がニューオリンズっぽい雰囲気に染まっていく。南部なまりの甘い声で歌うバラードは泥臭いけれど暖かくて、次郎吉の雰囲気にはぴったりだった。その黒人ミュージシャンの名前はアルじいさん。御歳85。サッチモ(ルイ・アームストロング)とやったこともあるらしい。カセットの写真には、口ひげをはやした黒人が粋な赤いソフト帽をかぶって微笑んでいる顔のアップが写っていたが、どう見ても85には見えない。この� �でこれだけ元気にピアノを弾いていれば、日本なら人間国宝になれるはずだ。
アルじいさんは、ニューオリンズのバーボン・ストリートにある「セブン・イレブン」というバーで夜の9時から夜中の2時まで弾き語りをしているという。ピアノを始めたのは6歳の頃だというから80年もピアノを弾き続けている
ことになる。若い頃はビッグバンドで働いていたが、一人頭のギャラが少ないので、40年前からセブン・イレブンで弾き語りをするようになったそうだ。ピアノ、歌に加えて、口でトランペットの音を出す、ヒューマン・トランペット
という必殺芸も持っている。ニューオリンズ生まれで、アメリカからまだ一度も出たことがないという。
前から自分で外国のミュージシャンを発掘して日本で紹介してみたいと思ってはいたが、ギャラや契約の問題であまり有名なミュージシャンは呼べないし、全くの無名では宣伝のしようもない。でもニューオリンズ・ブームもあって、この生粋のニューオリンズっ子のアルじいさんならなんとか話題になりそうだ。
ニューオリンズの歓楽街で70年近く鍛えた、力強い、でも暖かみのあるピアノ、鼻にかかった甘い声の小粋なボーカルは絶対に期待を裏切らないはずだ。よし、決まりだ。思い立ったが吉日、次郎吉の最初のスタッフだったチュチュを通 じて交渉すると、意外に簡単にオーケーの返事がきた。
こうして、アル・ブラサードは、この年の秋に多摩テックで開かれた「でめた91・ミュージック・フォア・チルドレン」のメインゲストとして出演することが決まり、85才になって初めて海外ツアーを経験することになった。
コンサートはどしゃぶり
この年は週末になると雨が降るというパターンが夏からずっと続いていた。
「でめた91」の当日も、朝から激しい雨がふり続き、雨足は午後になってもいっこうに衰えなかった。それでも多摩テックの開園と同時に数十人の熱心な客が入ってきた。せっかく「ミュージック・フォア・チルドレン」というタイトルを付けたのに、この寒さと雨では、子供たちは今回のコンサート会場の大プールを取り囲む丘の斜面を走り回ることもできない。
コンサートは予定通りにはじめるしかなかった。雨は容赦なくふり続けていたが、数百人の客が寒さに負けじと踊りだした。プールサイドに作られたステージの上には白いテントが張られているのでまだましだが、客席は水を抜いたプールの底なので、踊っているうちに濡れたコンクリートの床に足を取られて転ぶ人が続出していた。
トリのアルじいさんが登場する頃にはあたりはすっかり暗くなり、おまけに雨と風は強くなる一方だった。お目当てのミュージシャンやバンドを見終わると帰ってしまう客も多く、嵐の中で最後までプールの底に残って踊っていたのは200人くらいだった。いつもより多めのウィスキーを飲んでいたアルじいさんは上機嫌で、まずは力強いブギウギ・ナンバーと明るい笑顔で寒さを吹き飛ばしてくれた。
甘くハスキーな声でバラードを披露した後は、必殺技、ヒューマン・トランペットで盛り上げる。「いいぞ、じいさん!」 客席、ステージの袖からも声がかかった。
「でめた91」は、アルじいさんの「ジョージア・オン・マイ・マインド」で取りあえず幕を下ろし、濡れねずみの客とミュージシャンたちが引きあげていった後、スタッフを待っていたのはステージ、照明、音響機材の片づけだった。
雨の夜の遊園地は暗くてだだっ広い不気味な場所だ。谷底のプールサイドのステージからトラックの待っている丘の上まで機材を上げるには、人間がかついで運ぶしかなかった。
降りしきる雨の中、スタッフはステージをバラし、重い機材をかかえて、黙々と暗い丘の上に続く階段をのぼった。機材の搬出が終わった時には夜中の12時をまわっていた。
アルじいさんとのツアー
雨さえ降らなければなあ…いくら悔しがっても後の祭りだ。「でめた91」は採算的には大赤字だったが、落ち込んでいる暇もなくアルじいさんとのツアーが始まる。売れ残った記念Tシャツを手みやげに旅に出た。最初の公演地、京都の老舗ライブハウス「磔磔」に着くと、ひょうきんな丸めがねをかけた水島さんがいつものポーカーフェースで暖かく迎えてくれた。この店では外タレが出演する時は、いつも手製の素晴らしい垂れ幕や看板でステージを飾っている。この日、用意されていた似顔絵入りの立派な看板を見てアルじいさんも大喜びしていた。
共演のボ・ガンボスのkyonと簡単なリハーサルをやってはみたが、アルは気の向くまま好き勝手に弾くので、リハにはならなかった。店はkyonのファンでいっぱいだった。まずkyonが登場し、長髪を振り乱しての熱演で女性ファンをわかせた後に、アルをステージに呼び出した。
黒のスーツに黒の革靴、粋な羽根飾りのついたトレードマークのソフト帽をかぶって、笑顔をふりまきながら登場したアルは、まずは軽快なブギでご機嫌をうかがう。客席の雰囲気が盛りあがってきたところで、甘い声で「I'm Confessing That I Love You」と歌って女心をくすぐる。85歳といっても侮れない。ハスキーな甘い声以上に危険なのはアルじいさんの流し目だ。体型も小柄でぽっちゃりとしていて可愛らしく、ニューオリンズでももてまくっているという。当時まだ現役で80の時にできた4歳の娘がいる。最後にkyonが再登場して二人のジャムセッションになったが、案の定、アルは若い奴に負けてたまるかとばかりに弾きまくり、kyonに入り込むすきを与えない。40年も弾き語りを続けているうちに、合わせるという気持ちが薄くなっているのかも知れない。
ライブの後、ファンになった数人の若い女性が楽屋を訪ねてくると、アルは百万ドルの笑顔で迎え入れ、70年をこえる豊富な経験を感じさせる巧みな話術でさっそく口説きはじめた。この85歳は侮れない。
大阪アム・ホールでのライブはアル一人の弾き語りだった。客の入りを心配したホールのマネージャーの津田さんは自分でチケットを買って入ってくれたという。ありがとうございます。
東京周辺での数回のライブも大成功に終わり、どこの会場でもアルの虜になった女性たちが楽屋に押しかけてきた。絶対にニューオリンズに会いに行くわと本気で約束した女性が何人もいた。ニューオリンズでアルに会ったことのある女性まで現れて、ライブの後の楽屋はいつも華やかな雰囲気に包まれていた。
ツアーの最後は、10月15、16、17日、次郎吉での3日間のライブだ。初日はkyonを中心に組んだセッション・バンドとの共演だったが、アルの間の取り方、リズムのはずし方をおぼえてきたkyonが、他のメンバーをうまくまとめて、アルの演奏に合わせていた。アルもビッグバンド時代の感覚が戻ってきたのか、プレイにもバンドと綱引きをしているような迫力と緊張感が出てきた。
ライブ後、kyonがアルじいさんとのセッションに関する「傾向と対策」を書いたメモを、残り2日間のメンバーたちのために残していってくれた。このメモのおかげもあって、2日目のドクトル梅津と吾妻光良、3日目の塩次伸二、妹尾隆一郎とのセッションはスムースにいった。
「セントルイス・ブルース」をやっている時に、乗ってきた吾妻がアルと一緒に歌い出した。アルはしばらく吾妻に花を持たせ歌わせていたが、それも一瞬だけですぐに大声を張り上げて主役の座を奪い返してしまった。これには客も吾妻も大笑い。後でアルに話してみると、「あいつが歌詞を間違えたからさ」と涼しい顔だった。
毎日、銭湯やサウナで背中をこすり、寿司、天ぷら、焼肉を食べさせた甲斐あって、アルじいさんの肌はピカピカになり、ますます若く見えるようになってきた。2週間付きっきりで世話をしているうちに情も移ってくる。顔つきまで似てきたらしく、黒人の親子と勘違いされたこともあった。あれやこれやで、にわか息子は結局アルじいさんと一緒にニューオリンズ行きの飛行機に乗ることになった。ニューオリンズでは偶然、雑誌の取材で来ていた忌野清志郎に出会ったので、さっそく「セブン・イレブン」に連れていってアルに紹介した。意気投合した二人はすぐにジャムセッションをはじめたが、さすがは清志郎、地元の客にも大受けだった。
ニューオリンズセッション (1992年)
前の年に始まったニューオリンズ・ブームが続き、kyonと古澤良治郎を中心に2ヵ月に1度、ニューオリンズ・セッションを組んでいた。kyonの人気のお陰もあって、このセッションは毎回大好評。お客の数が100人を越すということもあった。その日、ライブ終了後に楽屋で、バンマスのkyonが古澤さんにギャラを渡した。その額5万円。チャージバック方式のジロキチでは動員数がそのままギャラにはねかえる。5万円というのは普段の古澤さんのライブでは考えられない金額だ。古澤さんはギャラを受け取ってから少し考え、メンバー全員に1万円ずつ配り始めた。kyonは慌てて、「それ古澤さんのですから」。といって古澤さんの手を押しとどめた。
古澤さんはもらったギャラをメンバー全員の分と勘違いしたのだった。古澤さんはその日上機嫌で遅くまでジロキチで飲んだということだ。月1度、土曜日の深夜には、渋谷毅ミッドナイト・ライブという大人向けのライブが始
まったのもこの年だ。渋谷さんのピアノに合わせて、金子マリ、小川美潮、木村充揮ら実力派のヴォーカリストがじっくりと歌を聞かせてくれた。
経営が苦しかった3月には、近藤房之助が10日間の連続ライブをやってくれて本当に助かった。ありがとう、房さん。房之助は、この前の年に、B・B・クイーンズのヴォーカルとして歌った、人気アニメ「ちびまる子ちゃん」の主題歌、「踊るポンポコリン」が大ヒットし、突然、有名人の仲間入りを果たしていた。大晦日にはレコード大賞、紅白歌合戦、次郎吉をかけ持ちする売れっ子ぶりだった。テレビの歌番組の生放送中に次郎吉でのライブを中継したいという話がきたので、常連を集めて楽しみにしていたが、店内がテレビに映ったのは、「現在、近藤房之助さんは、高円寺のライブハウス、次郎吉でライブの真っ最中です。近藤さん!」という女性アナの紹介の後のほんの数秒だけで、その後、放映されたのは前もって録画さ� ��ていたライブ・シーンだった。
行く先を知らせずに のんびり旅行 (1993年)
久しぶりにゆっくりと旅をしたくなった。行く先も目的もいわずに出発したので、半年間の留守中に、さまざまな憶測や噂話が飛び交うことになった。
「世界中のライブハウスを回ってるらしい」、「ニューオリンズのアルのところに行ったのさ」、「その後はニューヨーク経由でヨーロッパに向かうらしい」、「いやアフリカじゃないか」といった具合で、中には「ギャングに追われてシンガポールに逃げた」とか「香港に隠れているらしい」とかいうぶっそうな話もあった。一番笑ったのは、「阿佐ヶ谷のスーパーで見た奴がいる」という話だったが、実際には次郎吉の元従業員だったマダガスカル島出身のアフリカ人、マンドレを訪ねてオーストラリアに行っていたというだけのことだった。友だちの家にしばらく居候しながら、バイトで金持ちの家の庭に石の池を作ったりして稼いでから、バリ島にも旅行した。
今回の旅の一番の収穫は、オーストラリア西部の小さな町、フリーマントルで、先住民アボリジニーに太古の昔から伝わる素朴な管楽器、ディジュリドゥとめぐり会ったことだ。芯をシロアリに食われ空洞になったユーカリの木の筒にすぎない、この楽器の素朴で力強い音にひかれ、旅行中ずっと練習していた。
半年後、出た時と同じように突然日本に戻り、さっそく次郎吉に顔を出してみた。
その日は偶然にもワオの誕生日だった。ライブを終えて後片づけをしているワオの横に立つと、ワオは「あっ、マスター!」と一瞬のけぞっていた。「これを見てくれよ」といいながら、袋から長い木の棒のようなディジュリドゥを
取り出して、さっそく披露することにした。ブオ~~~~という飛行機でも落ちてきたような轟音にみんな目を白黒させている。しばらくして、音がずっと途切れないことに気が付いて、「どうやって息吸ってるんですか?」と聞かれたので、「循環呼吸っていうんだよ。息を吐きながら、同時に吸ってるんだ」と説明した。それ以来、どこへ行くにもディジュリドゥをしょっていき、会う人ごとに吹いて聞かせるようになった。
サックスの梅津和時さんや峰さんに「よく呼吸法をマスターしたね」といわれて得意になっていたが、一番嬉しかったのは、昼間、誰もいない次郎吉で、本田さんが一緒にピアノを弾いてくれたことだ。勝手きままに吹くディジュリドゥに合わせて、即興でピアノを弾いてくれたわけだが、本田さんのパワーには脱帽だった。
長年ライブハウスをやってきて、生まれて初めて自分で楽器を演奏し、しかも長年惚れ込んできた本田さんと一緒にやれたのだから本望だ。ディジュリドゥのうなりに乗ったメロディーは美しく優しかった。
20周年記念、1ヶ月ぶっ通しライブ サウンド・オブ・スーパースターズ
(1994年)
日本に帰ってきてから、会う人ごとに20周年は何をやるのかと聞かれるので、どうせならあっと驚くようなイベントをやろうと思っていた。人気バンドを集めて日比谷の野音でコンサートをやるもいいだろう。ただセッティングのことを考えると、5バンドが限界だ。20年もライブハウスをやっていると、出したいバンドの数は片手では収まらなくなっている。20年の間には個人的に世話になったミュージシャンも沢山いる。といっても3日間も借りる予算はない。二度目の「でめた」で大雨に降られた苦い経験があるので、野外コンサートの怖さも身にしみている。となると結局、次郎吉でやるしかない。そうだ、20周年だから、20日間ぶっ通しで記念ライブをやればいい。
すぐにスタッフを集めて出演者をリストアップしてみると、20日ではとても収まりきれなかった。よし、それなら1ヵ月やるかということになり、11月を20周年記念月間とすることが決定した。
記念月間の目玉として考えたのが、かつての次郎吉の2大人気バンド、ネイティヴ・サン、Cちゃん・ブラザースの特別再結成ライブと、バリ島で知り合ったスウェーデンの若者、ヨハン・リジェマルクを呼び、ディジュリドゥの魅力を紹介することだった。
ライブハウスでのアボリジニの民族楽器と日本人ミュージシャンのセッションは初めてだから話題にもなる。大地の唸り声のような、あの原始的で神秘的な音を聞けば誰でも感動するはずだ。
さっそくスウェーデンに連絡を取ると、日本に来たがっていたヨハンは即座にオーケーして、デモテープを送ってきた。テープを聞きながら、ヨハンとのセッションに合いそうなミュージシャンを考えた時、まず頭に浮かんだ
のは本田さんだった。ディジュリドゥの音を生かした、アフリカの民俗音楽のような素朴なサウンドが聞けるかも知れない。もう一人はギターの是方博邦だ。ヨハンの若者らしいアグレッシブな部分と合いそうな気がした。
ポスターのデザインを頼んだ伝さんは、夏休みを返上して、初期の次郎吉の思い出させるような蛍光色を使った明るいサイケ調、という注文通りの作品を仕上げてくれた。20年の集大成となる30日間のスケジュール表には、サウンド・オブ・スーパースターズの看板にふさわしい、日本のジャズ、ロック、ブルース、R&B界の大物ミュージシャンの名前が並ぶことになった。
スーパー・スターたちの繰り広げる音の絵巻、30日間のライブ・レビュー。中でも印象に残ったライブを以下にいくつか挙げてみよう。
ボ・ガンボス
初日のボ・カンボスは2ステージの入れ替え制にしたのだが、それでも前売り券は1日で売り切れた。ボ・ガンボスとして演奏するのは久しぶりとのことで客もメンバーも盛りあがったが、チャージを2度払って2ステージを見たフ
ァンが沢山いたのには驚いた。
渋谷毅・木村充揮セッションに 浅川マキ飛び入り出演
渋谷毅と木村充揮のセッションは1回目の時から何十年も前から一緒にやっているように息が合っていた。憂歌団の時とはまた違って、のんびりくつろいで聞けるのがいい。木村も「ほんま、ごっつぅエエ感じですわ」といっている。この二人の1回目のセッションの時には高田渡が酔っぱらって飛び入りした記憶があるが、今回はなんと浅川マキが飛び入り出演してくれた。
黒のコートにサングラスをかけたマキさんが現れ、タバコの煙をくゆらせながら「こんばんは……」と挨拶した瞬間に、ステージの照明が落ちたのではと錯覚するほど、マキさんの声には不思議な迫力と悲愴感がある。渋谷さんのピアノをバックに、マキさんと木村が即興のブルースを掛け合いで歌い出した。
風に舞って飛んでいる二つの風船の行方を見守っているような心地 よい緊張感がある。
客席の中年から、マキさんの往年のヒット曲、「夜が明けたら」のリクエストが出たが、マキさんは「だめなのよ……もお忘れちゃったのよ」とけだるい声でやんわりと断ってしまった。「渋谷さんが弾けば、歌い出すよ」という客席からの声に応えて、渋谷さんがピアノを弾きだすと、すかさず木村が「夜が明けたら…」と歌い出し、マキさんもついに観念して一緒に歌い出した。客席はやんやの喝采だ。歌い終わったマキさんが、「やっぱり、わたし、『まだ若くて』が歌いたいわ……」というと、今度は渋谷さんが「ぼく、その歌しらないな」といいだした。それでもマキさんが出だしを歌い出すと、すぐに大きくうなずいて伴奏をつけはじめた。「渋谷さんって…渋谷さんの存在っていうのはね……」とマキさんが嬉しそうにつ� ��やくと、客席からは大きな拍手とともに「すてきよ!」という女性ファンの声援が飛んだ。
木村とマキさんという、アクの強さではひけを取らないくせ者二人を相手に孤軍奮闘していた渋谷さんは、ライブが終わる頃には毒気とアルコールにやられてヘロヘロになっていた。
酔いどれピアニストと、天使のだみ声、そして黒装束の飛び入り女性ブルース・シンガー、こんな異色の組み合わせが聞けるのも次郎吉ならではだろう。}
シーナ&ロケッツ
シーナと鮎川誠は、以前にも次郎吉に出ていたが、シナロケとしては初めてのライブだった。超満員の入りで、ステージ前の客がじりじりと押し出されてステージが狭くなり、ついにはシーナが立つ場所が30センチくらいになってしまった。それでもシーナは最前列の男の子の顔をピチャピチャ叩きながら、楽しそうに歌い続けていた。
ディジュリドゥ・セッション
20周年記念ライブの目玉の一つが、スウェーデン人のディジュリドゥ・プレイヤー、ヨハン・リジェマルクと日本のミュージシャンとのセッションだった。本田さんはエレピを持ち込み、若いメンバーを従えた自身のバンドでヨハンに対抗した。
是方とのセッションの時はファンの女性客が一杯でヨハンも大喜び。是方のアグレッシブなギターとヨハンのリズミカルなディジュが実によく合っていた。ヨハンに呼び出されライブの最後にセッションに加わる事ができたという嬉しいハプニングがあった。
その後、ヨハンとは、京都の「磔磔」、博多の「サライ」、裾野の英会話学校のパーティでも一緒に演奏させてもらった。例によって「磔磔」の水島さんにスケジュールを入れてもらったのだが、ヨハンは外タレというだけでまったくの無名だし、ディジュリドゥという楽器自体もまったく知られていない。そんなライブでも快くスケジュールを入れてくれる水島さんは神様のよ うな人だ。
幸い、「磔磔」でも博多の「サライ」でも、地を這う大蛇のようにうねりながら、切れ目なく鳴り続けるディジュの不思議な音は大受けだった。
ネイティヴ・サンの再結成ライブ
最終日ということもあって、チビタやドヤなど昔のスタッフとその家族、当時の常連客が勢揃いして大同窓会パーティになった。ミュージシャン、関係者には子連れが多く、店の中は小学校の運動会のような騒ぎだった。
互いの顔を指さし合って、「わーっ!」とか「おおっ!」とか叫びながら久しぶりの再会を喜んでいる。後から入ってきた客は、2、3歩進むたびに懐かしい顔に出会うのでなかなか奥に進めない。
みんな変わらない。ネイティヴ・サンの音も昔のままだ。本田さんのエレピの優しい音色、峰さんの明るく爽やかなソプラノ・サックス、福村さんのあったかいトロンボーン、大出君のワウワウをきかせたファンキーなリズム・ギター。川端さんのどっしりとしたベースと村上寛のシャープなリズムがサウンドを支えている。
アンコールで客が全員、総立ちで踊りだした時は、一瞬タイムスリップしたような感覚になった。
ライブ後も沢山の関係者、ファンが残り、この日は昔話を肴に朝まで飲み明かすことになった。
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5章 ディジュリドゥ・プレイヤーとして
BLACK MUSIC FROM JIROKICHI(1996年)
今まで野外コンサートやイベントは随分やってきたが、形に残ることもしてみたい。長くやっているライブハウスには自分のレーベルを持っている所も多い。ここはひとつ「JIROKICHIレーベル」を設立して、気に入ったセ
ッションを組んでライブレコーディング、CDを作ったら、発売記念のライブ、あわよくばツアーも…そんな期待を胸に思いついたのが、本田竹広(ピアノ)、塩次伸二(ギター)、ポール・ジャクソン(ベース)、ハイタイド・ハリス(ヴォーカル)、そしてマーティ・ブレイシー(ドラムス)というインターナショナルなドリームセッションだ。
黒人3人はいずれも日本で活動中の売れっ子ミュージシャンで、ポールはハービー・ハンコックのバンドにいたこともある最高にファンキーでパワフルなベーシストである。
話はとんとん拍子に進み、3日間のライブレコーディングを経て、次郎吉がプロデュースする初めてのCDが完成した。日本を代表するジャズの本田さんとブルースの伸ちゃんに、アクの強さではいずれ劣らぬ黒人3人という組み合わせの妙が効を奏し、グルーヴ感溢れる仕上がりとなった。ポールがヴォーカルをとっている「ホテル・ドミンゴ」は明るくてファンキー、俺の大好きなナンバーだ。CDタイトルはシンプルに、「BLACK MUSIC FROM JIROKICHI」とした。
次郎吉初プロデュースのライブアルバムという触れ込みで、上野ジャズフェスを皮切りに関西ツアー、四国ツアーを敢行。俺はツアーマネージャーとして同行した。ホンモノのブルースを聞けるセッションバンドということで、どこのライブハウスでも歓待を受け、お客の入りも上々だった。
俺も久々のツアーを楽しんだが、困ったのは、メンバー全員あまり協調性がなく、しかも黒人3人は在日歴が10年以上になるにもかかわらず日本語があまりしゃべれないことだ。朝ホテルで朝食をとるためにレストランに行くと、必ず1番最初に来てもう食べているのはポール、次が俺。伸ちゃんはすでにどこかに遊びに行っていて部屋はもぬけのから。ハイタイドは寝てるんだかちっとも降りてこない。ようやく姿を現した時にはもう朝食は下げられた後で、「ブルースマンが朝早くから飯食えるか」と言って(英語なのでよくわからないが多分そんなことだと思う)怒り出す。やたらと自己主張の強いハイタイドが出て来るといつも話がややこしくなり、本田さんが言ってきかせるという珍しい場面もあった。発売記念ライブは新宿の日 清パワーステーションで行った。
この時シークレットでハイロウズ(甲本ヒロト)が出演。ハイロウズの出演に関しては、口コミだけだったにもかかわらず、ヒロトのファンがどっと押し寄せた。
シークレットライブが大流行
常連ミュージシャンが知り合いの芸能人や大物アーティストを連れて来て、演奏に飛び入りしたり、それが縁で極秘のライブをしてくれたりすることがよくあった。
小室等のライブに現れたのは井上陽水。カウンターに座っているだけで、オーラが出てくるようだ。小室さんの娘でよく次郎吉でライブをやっているゆいさんが、「ここのチャーハン美味しいんですよ。」と勧めると、陽水さんはチャーハンを注文。スタッフのタカがいつになく緊張して作ったチャーハンを食べ終わると、おもむろに立ち上がり、一曲歌ってくれた。タカはその時のことを、「陽水さんはこの席に座って、チャーハンうまそうに食べてくれたんですよー。」と得意気に話す。
テナーサックスの片山広明にサックスを習っているのは忌野清志郎。片山さんのバンド、デ・ガ・ショーのライブの時に、サックスを持って飛び入り出演。
この嬉しいハプニングにお客さんはびっくり。ざわめきがあちこちから起こった。
次郎吉にハープを持って遊びに来てくれた甲本ヒロトは、いち早くディジュリドウーに興味を示し、俺が吹いているのを見て数時間の内に吹き方と循環呼吸までマスターした。その集中力のすごさ、やはりカリスマロックンローラーになるだけの人物である。忙しい中、短期間でディジュリドゥをモノにしたヒロトに、次郎吉でシークレットライブをすることを勧めてみた。勿論その時は俺も出させてもらう。
この時も日清パワステと同様スケジュール表に名前を出さなかったのに、店はヒロトのファンで溢れた。恐るべし、ヒロトファンのネットワーク。ヒロトは、ライブで初めてディジュを披露。荒削りながらも勢いのある音とリズムで聞かせてしまうのはさすがヒロトだ。ディジュの他にも、Kyonとの掛け合いがばっちりのリズム&ブルース、楽しいトークが間近で聞けてファンは大満足。後半俺も出演してジョイントセッションをした。ファン以上に満足したのはこの俺かもしれない。
25周年記念ライブ(2000年)
20周年に引き続き、今回も次郎吉で連続ライブをすることにした。ニューヨークから増尾好秋、次郎吉の節目には欠かせないネイティヴ・サンが再結成、久々の上々颱風、ジャズの山下洋輔、ブルース、フュージョン、フォーク、若手からベテランまで大集合してくれた。その中でも目玉は、俺のセッションバンド・ディジュリドゥマジックだ!
前年あたりからディジュリドゥを軸にしたセッションバンドを結成、俺はディジュリドゥプレイヤーとして活動していた。バンドと言ってもジロキチセッションと同様、メンバーはその都度違う。その頃セッションの中心になってくれたのは、三好3吉功郎(ギター)と細畠洋一(パーカッション)の2人だ。2人は、ただメチャクチャにディジュリドゥを吹きまくる俺に、音楽の基本やリズムをいろいろ教えてくれた。打ち合わせなし、やりたい人がやりたいようにやるというディジュリドゥ・マジックのスタイルは、音楽の常識をくつがえし、新しいグルーヴを生み出した。
25周年記念の最終日。この日のメンバーは、三好3吉功郎、細畠洋一、それにマル秘ゲストで、またまたヒロトが来てくれた。他にもKyon、古澤さん、ポールや大勢のミュージシャンが遊びに来てくれて、セッションに加わり、同窓会のような賑わいだった。
それからのこと
オーストラリアから帰ってすぐ、ピアノの山下さんにあつかましくもお願いした事がある。「ディジュリドゥがうまくなったら、一緒にやって下さい。」ということだ。
山下さんは気軽にうなずいてくれたが、本当にその時が来るとは思っていなかったにちがいない。ジロキチで山下さんとのライブが実現した時には、心臓に毛が生えている俺でもさすがに緊張した。山下さんから見たら、俺などまだハナたれ小僧だ。とにかく必死で吹くしかない。そう覚悟を決めた。
無我夢中で吹きまくったので、ライブの最中の事はあまり覚えていない。が、終わってから山下さんが「面白かったよ!」と言ってくれたときには、それこそ天にも昇る気持ちだった… とまあ、30年分を思い出してみたが、忘れていることが多すぎて、仕方がないのでワオに聞いてみたが、ワオも俺と似たり寄ったりだ。長年の友人達やミュージシャンに言われたり、昔のポスターやスケジュール表を見て思い出したことをつなぎ合わせて、なんとか物語らしいものになったかと思うのだが…。 いろいろあったんだなあ、次郎吉も、俺も。
俺は俺のやりたいことをやるから、オマエらもやりたいようにしろよ!
ワオ、早く結婚しろ!
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