2012年4月19日木曜日

What's New? Ver.6


What's new? ver.6


(ここには2006.11.06から2007.2.24 までの更新情報があります)

Last Update 2.24

H.G.ウェルズ「水晶の卵」の翻訳をアップしました。

以前からここでは誰もが知っているけれど、その実、ちゃんと読んだことはない作品、たとえば「女か虎か」のような作品を訳していこうと思っていました。これもそのひとつです。
19世紀末に発表されたこの作品は、『タイムマシン』や『透明人間』、あるいは『宇宙戦争』に比べると有名ではないし、地味な展開で、SFというよりは一種の幻想小説とも読めるものかもしれません。それでもわたしたちが思い描く「地球外生命体」のイメージの根幹にはウェルズが描く「火星人」が元になっているだろうし、ウェルズという作家も「誰もが知っているけれど、その実、ちゃんと読んだことがない」作家のように思います。

その昔、「スタートレック4 故郷への長い道」という映画のビデオを見たことがあります。
この作品では、地球はるか上空で宇宙船が地球に向かって呼びかけているのですが、その呼びかける相手は人間ではなくクジラだったんです。ところがその時代(23世紀だったかもっと先だったか、とにかくうんと先のことです(笑))クジラは絶滅している。お引き取り願おうにも、人間をコンタクト相手と見なしていないその宇宙船は、人間からの信号をまったく認識しない。
そこでカーク艦長以下、エンタープライズ号の乗組員たちは1980年代の地球、というか、アメリカにタイムスリップしてやってくる、という話なのです。

おもしろかったのは、宇宙人(はまったく姿を現さないのですが)が交信相手と認めているのがクジラだったという設定です。確かに交信相手が人間である必要はどこにもないわけです。人間を変形させたような宇宙人が、すこぶる人間的に、遠く宇宙の彼方からはるばる侵略にやってくる、というお定まりの展開を脱しているぶん、印象に残っています。まあ「コミュニケーション」目的にやってくる、というのも、すこぶる人間的な発想ではあるのですが。

わたしたちの空想するものというのは、どこまでいってもわたしたちの考え方の枠組みの範囲内でしかないものです。どれほど「未来の世界」「地球外の生命体」を独創的に想像しようとしても、あくまでそれは人間の思考の範囲内に収まるもの、いいかえれば、すでにある形の、たとえばタコであったり、翼であったり、金属であったり、運河であったり。ふだん思いつかないようなものを組み合わせることによって、可能な限り、「独創的」な未来や異世界を描こうとする。あらゆる創造の試みと同じく、小説の「未来」もそうやって創造されてきたのだと思います。

わたしたちは、時代というものを、どこか「成長」するものであるかのようにとらえてしまいます。テクノロジーが進化した、知識が増えた、そういうことを踏まえて、子供が大人になっていくように、過去から現在に「成長」あるいは「進化」してきたのだ、というふうに感じている。それでも、「創造」が、何かまったく新しいことを生みだすのではなく、過去のものごとの組み合わせであり、すでにあるものの構造を、見方を変えることによって新しく見つける試みであるとするなら、わたしたちが進化したと考えるテクノロジーも、飛躍的に増大したと思っている知識も、すでにあるものの組みかえでしかないのではないか。
だとしたら、この「成長モデル」としてとらえることそのものが誤りであり、つまりは過去の人々を、未熟な、ナイーヴな存在であるように見てしまうのも、誤りということになるのでしょう。

ウェルズの時代の人々が、火星に運河を見たり、タコ型の宇宙人を想像したりしたことを、わたしたちはどこか大人が子供を見るように、滑稽なものとして見てしまうのですが、それは単にわたしたちのものの考え方の枠組みが、当時とは多少違っている、というだけのことなのだと思います。

SF作家ではありませんが、わたしが大変に好きな作家のひとりであるポール・セローが書いたSFに『Oゾーン』(文藝春秋社)という本があります。これはハードカバーの上下巻で、いまではほとんど図書館でしか読むことができないのですが、おもしろい本だとわたしは思っています。
そのなかに、繰りかえし「過去は不可解だが未来はわかりやすい」というフレーズが出てくるのです。わたしは読んだときからずっとどういうことか考えてきました。
そうして、いまはこういう意味だと思うのです。
過去というのは、そのたびごとに読み換えられ、新しく見つけられ続けるもので、未来とはわたしたちの現在知っているもののまわりにひろがるごくわずかな見通しをそう呼んでいるに過ぎないのだ、と。

わたしが経験したさまざまな出来事は、わたしのうちにあって、解釈し直され、別の経験と結びつけられるのを待っている。そうして、それは新しい経験につながっていく。そんなふうに考えると、先がわからない不安より、この先どうなっていくんだろう、という期待の方が大きくなっていきます。
時代を成長モデルでとらえると、文明の勃興→爛熟→衰退となって、「いまをピーク」ととらえて徐々に衰退していく未来をどうしても考えてしまうけれど、その考え方そのものが間違っているのではないか。そんなふうに思います。

その昔、「タイムマシンに乗ってどこかに行けるとしたら、過去に行きたいか、未来に行きたいか」と聞かれたことがあります。わたしは断然未来に行きたい、と言ったら、女の子(当時)で未来に行きたがるのはめずらしい、と言われたのを覚えています。そんなもので性差を云々するのもバカバカしい、と当時思ったものでした(ほら、わたしだってちっとも「成長」していない)。
いまでも、やっぱり未来がいいな、と思います。あのとき、もしああしなかったら、という日付がないわけじゃない。それでも、それをやり直すより、新しいことを積み重ねていきたいと思います。そうして、見ることができるのであれば、そうしたことを積み重ねて、自分がどうなっていくか、どこまで行けるか見てみたい。
だけど、これはタイムマシン、必要じゃありませんね。みなさんは過去と未来、どちらに行きたいと思いますか?
ただし、いまのわたしはタイムマシンなんてものは存在し得ない、と思ってはいますが(笑)。

さて、今日は久々に寒くて、自転車に乗りながら向かい風に涙を流しながら帰ってしまいました。体が寒さに対応していないなあ、とつくづく思っちゃいました。まあこんなふうにぶりかえすように寒い日があっても、またすぐに暖かくなるのでしょうが。

それでもあちこちで風邪が流行ってるという話を聞きます。どうかお元気でお過ごしください。

それじゃ、また。

Feb.24, 2007




Last Update 2.11

「あなたのなかの「子供」―描かれた子供たち」アップしました。

昔から、「純粋さを失ってしまった」とか、「いつまでも少年のままの心で」とかいう言いまわしが、ものすごくキライでした。うそこけ、と思っていました。そんなことを平気で言えるような面の皮の厚いやつが純粋だったり無垢だったりしてたまるか、と。

赤ん坊の状態が一番純粋で、そこから徐々に堕落していくのであったら、いったい何のために生きているんでしょう。何のために経験を積み、学んでいくのでしょう。そんなことをする必要など、まったくない。なにもしないほうがより純粋でいられるのなら、そんなものに一体どんな価値があるというのか。

わたしたちは知らないものは見えないし、知らない音は聞こえません。
赤ん坊というのは、その状態から出発して、自分の生存をかけて、さまざまなものごとを学んでいっている。だから、赤ん坊のうちに何か尊いものを見るとしたら、その「学ぶ」ということに向ける真摯さではないかと思うんです。大人から見れば、小さい子供が覚束なげに口にするかわいらしい喃語ですが、子供の側からすれば、言葉というものを自分なりに認識し、発声を確かめ、発語を練習する、必死の学びでしょう。
問題があるとすれば、いつのまにかわたしたちは学ぶことをやめてしまうことのほうなのではないか。

そういう問題意識がある一方で、小説のなかに出てくる子供の役割はいったい何なのだろう、ということもずっと思ってきました。確かに主人公が成長していく物語では、子供から始まるのは当たり前といえばその通りだ。けれども、それだけなんだろうか。もっと意味があるのではないのか。

ということで、そのふたつの問題意識がつながっていったわけです。
子供時代の思い出が、わたしたちをノスタルジーに浸らせるだけのものなのだろうか。そうではなくて、むしろ行動に向かわせるものではないのか。本に出てくる「子供」を読むことは、記憶を共有することになるのではないか。まあそういうことをああでもない、こうでもない、と(笑)。八幡の藪知らず状態かもしれません。わかりにくいところがあったら、また指摘してください。

記憶というのは不思議なものです。長い時間にわたって何度も会った人より、ほんの数度会っただけに過ぎない人が、自分にとって忘れがたい記憶を残す人になることもあれば、自分のものではない、人から聞いたにすぎない思い出が、その人を媒介して自分のうちに刻まれることもある。
わたしたちはふだん、「自分」を、一種の島のように、独立したものとして考えているけれど、ほんとうにそうなんでしょうか。人の考えが、それまで自分のうちにはなかったにもかかわらず、それを聞いて、自分自身の行動を決めてしまうこともある。自分のものではない記憶や経験が、自分のうちに刻まれることもある。
「自分」と「他者」の区別というのは、そんなにくっきりとしたものなんだろうか。
ジョン・ダンの詩のように、「大陸(くが)の一塊(ひとくれ)」なのかもしれません。

さて、先日、いままで聴いたことのなかったバンドのCDを聴きました。
そこにはわたしがそれまで知らなかった音がある。知らなかった音だから、どういうふうに聴いたらいいかもよくわからないのだけれど、なんというか、もっと聴いてみたい感じがします。
知らない音を聴くとき、あるいは、それまで読んだことのない種類の本を読むときもそうだけれど、確かにそういうものは、わたしたちの世界を広げてくれると思うんです。
それまでよく知っている音、耳に馴染んだ音、あるいはよく知っている種類の本、好きな本とよく似た系列の本、そうしたものは、いまある自分の感覚をなぞってはくれるけれど、広げてくれるものではない。
だから、まだわかりもしないうちに、好きだとか、きらいだとかいうのではなしに、自分のうちに受け容れて、それがどうなっていくかを見てみたい。
よくわかんないなー、と思いながら、それでもどこか引かれるものを感じながら、繰りかえし聴いています。

日差しに春のまぶしさが加わってきました。通り道の満開の紅梅の枝に、ウグイスならぬヒヨドリが止まって、ぴーやーぴーやーとにぎやかに鳴いていました。
このまま暖かくなるのかどうかはわかりませんが、春はすぐそこ。
どうか良い日をお過ごしください。

それじゃ、また。

Feb.11, 2007


誰がロックヒットバラクーダを実行します。



Last Update 2.05

先日ブログに載せた「キンギョとの信頼関係」「I trust you.(あなたを信頼しています)」を二本合わせて加筆修正したのち「信頼ということ」として「この話したっけ」のうちの一本としてアップしました。

以前、本のなかで、アメリカでは夜中の十二時にいきなりやってきて、いまオレの車のトランクに死体が入っているんだが、一晩泊めてくれるか、と聞かれたときに、何にもいわずに泊めてやるのがほんとうの友情だとする考え方がある、と紹介されているのを読んだことがあります(たしか、河合隼雄の何かだったと思います)。

これはなかなかおもしろい問いで、いろんな人に当てはめて考えることで、自分がその人をどのていど信頼しているかがわかります。ああ、この人がそこまでのことをしなきゃならなかったのはそれだけの根拠があったにちがいない、と、即座に思えるかどうか。いいですよ、と何も聞かずに入れてあげられるような相手がいる人は、幸せな人だと思います。

一方で、アメリカのドラマや映画などで、"I'm disappointed in you.(君には失望したよ)"と一方が相手に言っている場面を見ることもあります。お父さんが息子に言う場面が多いように思うのですが、それを見るたびに、「だれも期待してくれなんて頼んだ覚えはねえよ」と息子がちゃぶ台ならぬコーヒーテーブルあたりをひっくり返さないかな、と思ってしまいます。 どうもその言葉には、"trust" の言葉を裏返しにした冷徹さがあるような気がしてなりません。
たとえ親子であっても、一個の人格として、わたしはおまえを信頼する、そういうことが言える人たちだから、逆に、おまえはわたしの信頼に応えてくれなかった、おまえはわたしを失望させた、そういう理屈なのでしょう。

それでも、期待にしても、信頼にしても、こちらが一方的に相手に寄せるものです。
少なくとも寄せる側はそのことをわきまえておくべきでしょう。信頼できる相手にめぐりあえたのは、幸福なことだけれど、自分の信頼を相手が受けとってくれるか、そうして、相手とのあいだに信頼を積み重ねていけるのか、それはまた全然別の話です。それを、自分が期待したことを相手がやってくれなかったからといって、信頼を裏切った、だの、失望した、だのと言うのは、全然ちがっていると思うのです。

それでも、いくら口には出さなくても、一緒に仕事をしている相手が自分の仕事を信頼してくれているかどうかは伝わってきます。そうして、そんな相手とは、確実にいい仕事ができる。自分一人だけでやっていてはとうてい不可能なことまで、できるものです。

こういうことを考えると、「わたし」と「あなた」のあいだは、かならずしも明確な線が引かれているわけではないのかもしれません。気分は伝染するし、信頼されているという実感は、わたしたちを強くする。境界の曖昧な「自己」、「間主観性」みたいに言っちゃってもいいのかもしれませんが、こんなふうなあやふやで曖昧な部分というのは不思議だし、おもしろいものだと思います。

さて、つなぎ記事で更新したのですが、「子供」もがんばって書かなくちゃ。また近いうちにアップしたいと思うので、そちらもよろしくお願いします。

もうひとつお知らせを。リンクページに金川欣二さんの言語学のお散歩(マックde記号論)を追加しました。有名なサイトなので、ご存じの方も多いかと思いますが、まだご存じじゃない方は、おもしろいエッセイがどっさりありますから、ぜひ、お読みになってください。
実は、ここを始めるとき、あんなサイトができたらいいな、と思っていたんです。わたしのあこがれのサイトです。

それにしても、今夜の空気は二月とは思えない、もちろん寒くはあるのですが、微かに春の気配さえ感じさせるような、暖かな夜でした。これから何度か寒波の揺り戻しはあるのでしょうが、そろそろ冬も終わりにさしかかっているのかもしれません。

いつもおつきあいくださってありがとうございます。読んでくださる方がいるから、書き続けることができる。ここを書いているのはわたしだけれど、同時に読んでくださってる方がつくっているサイトだとも言えます。また、遊びに来てくださいね。

春はもうすぐ。どうかお元気でお過ごしください。それじゃまた。

Feb.05, 2007




Last Update 1.25

トルーマン・カポーティの短編「ミリアム」をアップしました。
細かいところをかなり手直ししたので、ブログ版よりいくぶん読みやすくなったのではないかと思います。

ミリアム=ミセス・ミラーの影の部分、という見方は、翻訳のあとがきに少し書いたので、ここではもうひとつの見方、つまり、ミリアムはミセス・ミラーのまったくの幻想だったのではないか、という角度から、少し書いてみたいと思います。

このあいだ作田啓一氏の『三次元の人間』という本を読んでいたところ、こんな一節に行きあいました。

 どうして人間だけがたんなる個体として、みずからだけのためにいつまでも生き続けることを願うのでしょうか。ただし、デュルケームが洞察したように、人間はただ自分だけを目的として生きるようにつくられてはいないから、自分だけを目的として生きてゆく個人は病理的状態に陥りがちです。しかしいま問題にしているのは、自分だけを目的として生きることができるかどうかということではなく、人間は一般にいつまでも自分だけのためであっても生き長らえようとする願望をもっているということなのです。

作田啓一『三次元の人間 生成の思想を語る』(行路社)

ひとつの見方として、ミリアムはミセス・ミラーの幻想だった、つまり、孤独のうちに閉じ込められ、さらに雪に囲い込まれたミセス・ミラーが、一種の狂気に陥った、ということも可能ではないかと思うのです。
外界と関わりを持たず、自足して生きるミセス・ミラーは「自分だけを目的として生き」ている、とも言えます。そうして、デュルケームの言うように、病理的状態に陥ったのだとしたら。むしろ、ミリアムをドッペルゲンガーとして見るよりも、こちらの見方の方が、わたしたちにとって身近な問題といえるのかもしれません。

ここで、わたしは以前、こんなできごとに行きあったことを思いだすのです。

以前、交差点を渡ったところにあるドトールに行こうと、横断歩道の手前で信号待ちをしていました。すると、向こうの歩道を制服警官の男性二名、女性一名が走ってきて、店の中に入っていったのです。
何ごと? と思いました。
コワイことだったらやだなー、でも、気になるなー(笑)、と思って、店に入ると、中央の大きなテーブルの席にいる女性のまわりを、その三名の警官が取り囲むように立っていました。
長い髪を波うたせた五十代後半か、六十代の初めぐらいのその女性は、響き渡る声で「なんでここを出ていかんならんのん!」と言っているのです。

「それやからな、あんた、ここでそぉゆう大きな声出したらほかのお客さん、びっくりしたはるがな」
「わたしはなんもしとらん。それやのに、みんな、ジロジロこっち見て(その瞬間にまわりの頭がいっせいにうつむいたのがおかしかった)。ほんまに気ィ悪いわ。おかしいのは、あんたらの方やないのん」

わたしはカウンターに並んで順番待ちをして、自分のコーヒーを買ったんですが、そのあいだにも、お客さんは店を出ていったり、奧の喫煙コーナーに移ったりしていました。だから、店内は空いてきて、わたしはそこから比較的離れた席を取って、持ってきた本を広げました。
隣の席ではおばさんたちが、さっさと連れ出したらええのに、なんてひそひそ言ってましたが、店の中で(何がきっかけかはわかりませんが)大声で話すぐらいの人を、いくらおまわりさんでも連れ出すことはできないんでしょう、みんなの迷惑になるからやめときや、と諭して、おばさんを残して店から出ていこうとしました。

するとまたそのおばさんが喚き始めた。
「あんたら、これがそんなにおもしろいんか。ええかげんにしぃや」
そうなると、警官の方も放っておけない。また戻ってきて説得を始める。おばさんは大声でそれに反論する。

人間というのはよくしたもので(というか、単にわたしが順応性があるだけなのかもしれませんが)、事態が飲み込めると、もうちっとも「異常」な出来事とは感じられないんです。喚いていようが、大きな論理の逸脱がないわけですから、平気で本とか読めちゃう。

そのうち、何というか、この女性も、一種、騒ぎを起こして楽しんでいるのかもしれない、というふうに思えてきました。
波うつ白髪混じりの黒髪、黒いシャツとロングスカート、なんとなく独特の論理体系に沿ってコーディネートされているような気もする。
もちろん、微妙にタガが外れてるんでしょうが(意図してやっているわけではなさそうだったから)、かといって傍にいてたちまち恐怖を覚えるわけでもない。
しきりに、まわりが見る、と言っていましたから、逆に見られていることを楽しんでいたのかもしれない、逆にもっと視線を集めようとして、何度も大声を出しているのかもしれない。

それがどうなったかを見届ける前にわたしはそこを出たのですが、こんなことを思いました。
たとえば、一人暮らしで、なんとか生活がしていけるぐらいのお金があったりすると、ほとんど人と話をすることもなく日が過ぎていくものなのかもしれません。そういうなかで、何とかコミュニケーションを築いていこうとする努力は、さまざまなものがあるだろうけれど、それをヘンな形で、本人も気がつかないままやっていこうとすると、あんなふうになるのかもしれない。あれはずいぶん極端なやりかたですが。

わたしたちは「自分のため」に生きている部分と、それを引っこめたりすりあわせたりしながら「自分以外のだれかのため」に生きている部分の両方を持っています。
ところがミセス・ミラーのように、ひとりきり、しかも経済的にも、身体的にも自足している、となると、「自分だけを目的として生き」ることになってしまう。
ミリアムは、それに耐えられなくなったミセス・ミラーが、それでも生き続けるために呼びだした幻影だったのかもしれません。

そんなこむずかしいことを考えなくても、ホラーとして読むもよし、ダークなファンタジーとして読むもよし、楽しんでいただければな、と思います。んーと、口幅ったいことを言っちゃうんですが、『ミリアム』に関しては、既存の翻訳にすごく文句があった。自分のがいい、とは言いません。誤訳もいっぱいあると思う。だけど、既存のよりは、マシなはずです、というか、そうだったらいいな、って思ってるんですけどね。
だけど、学生は訳をそのまま使って×をもらった、って文句を言わないように。それから、参考にしたら、お礼のひとつも言うように。
いいですね? 「自分だけを目的として生き」てると、病理的状態におっこっちゃうかもしれませんよ(これは恫喝)。


外国人は、私は生き残る

寒い日が続きます。寒い時期に生まれた方は、寒いのが平気なんでしょうか。
暑い時期に生まれたわたしは、ほんとうに寒いのがダメなのです。早く暖かくなってほしい。
ともかく、寒い時期に生まれた人も、暑い時期に生まれた人も、穏やかな季節に生まれた人も、どうぞお風邪などお召しになりませんよう。お元気でお過ごしください。
今日、通りで蝋梅が咲いているのを見ました。梅も、咲いているところもあるんでしょうね。
ということで、それじゃ、また。

Jan.25, 2007




Last Update 1.13

あけましておめでとうございます、という挨拶も、いささか間の抜けたものとなりました。なんだかんだで更新が遅くなってしまいました。
とはいえ、年頭のごあいさつだけは、ちゃんとしておきましょう。
旧年中は足をお運びくださいまして、どうもありがとうございました。
どうか本年も サイト「ghostbuster's book web」 と、ブログ「陰陽師的日常」をなにとぞよろしくお願いいたします。

新年第一回目の更新は、「この話したっけ 〜正月の時間」です。

正月のときの出来事は、去年「いくつもの正月」で書いてはいたのですが、もう少し、何か書いてみたかったんです。当初はそこから抜け落ちたものを落ち穂拾い的に書こうかとも思ったんですが、もう少し「時間」というものに焦点を当ててみようと思いました。

わたしたちは時間というと、なんとなくあの歴史年表のようなものとして思い浮かべてはいませんか? 少なくとも、過去の時間ということを思うとき、わたしの頭に浮かんでくるのはあの年表です。

ところが自分の記憶をよりどころに過去の時間に思いを馳せると、全然それとはちがう。行きつ戻りつ、些細な出来事が引き延ばされて記憶されていたり、あるいはある出来事からつぎの出来事が、平気で一年以上、飛んでいたり、ちっとも等間隔ではありません。

時間というのは、ほんとうにモノサシのような刻み目がついたものなんだろうか。過去の出来事というのは、ハードルが整然と並んでいるように、一直線の時間軸に沿って、等間隔に並んでいるのだろうか。

時間ということを考えるにつけ、わたしはこういう疑問を抱いてきました。
ここでふれたのは、どれも一回限りの、些細な、言ってみれば取るに足らないような出来事です。それでも、どういうわけかわたしの記憶の中にはしっかりと刻まれている。

おそらく、人間が記憶するというのは、こういうことなんだろうと思うんです。
出来事というのは、無数に起こっています。そうして、その無数の出来事のなかから、そのときどきの想像力に基づいて、特定の出来事を選択肢ながら呼び起こしているのだろう。そうして、このささやかな出来事を、わたしはそのときどきで呼び起こしてきたから、いまに至るまで、どこにもいかず、わたしのなかに留まっているのでしょう。

ここでふれたささやかな「時間」は、どれも「場所」と密接に結びついています。こうした「場所」の記憶は「時」を流れないものとして、そこにつなぎとめているのかもしれません。

わたしのささやかな記憶が、これを読んでくださった方の記憶の呼び水となれば、これほどうれしいことはありません。
そうして、何か思いだされたら、どうか教えてください。また、お話ししましょう。

年が明けると、寒さは厳しくなりますが、それでも日が延びていくのはうれしいものです。夕方、北西の山の上が茜色に染まっているのを見ながら、少しずつ、季節が移って行っているのを感じます。

寒い日が続きます。
どうかお元気でいらっしゃいますよう。

ということで、それじゃまた。

Jan.13, 2007




Last Update 12.30

アーネスト・ヘミングウェイの短編「殺し屋」をアップしました。

ヘミングウェイの初期の作品のなかでも非常に有名なもののひとつです。構築された緊密な世界は、その一部しか描かれていない。その向こうに何があるのか。なんでこんなことになってしまったのか。これからさき、どうなっていくのか。こんなに短い短編なのに、いつまでも心に残っていきます。

ヘミングウェイを訳したのは、「日付のある歌詞カード 〜"Losing It"」でニール・パートの詞を訳したのがきっかけでした。一時期、しきりに読んでいたのですが、後期のいくつかの長編を読んで、もうヘミングウェイはいいや、みたいな気持ちになっていたのです。それから何年かがすぎて、ラッシュというバンドを知って、この曲を聞くうちに、ほんとうにわたしはヘミングウェイのことをちゃんと読んでいたんだろうか、と思うようになって。

あらためて読み返してみて、緊張感といい、場面の作り方といい、やっぱりすごいなと思いました。ここには何か、まぎれもなく確かなものがある、という感じ。
やはり、文体といい、リズムといい、やはりヘミングウェイは文学というものの一部を作っていった人物のひとりなのだとあらためて思わずにはいられません。

「Losing It」のコラムのなかで、後期のヘミングウェイは往年の輝きを失ったようなことを書きました。でも、それはずいぶん雑な書き方だったな、と思います。
この「殺し屋」の世界を維持してもよかったのだと思うのです。あるいは、『日はまた昇る』とか『武器よさらば』みたいな、厳格な一人称の視点を追求してもよかった。
けれども、そうはしなかった、というのも、ヘミングウェイの選択だったのだ、と。
それが、作品に結実しなかったからといって、結果から判断して「輝きを失った」とか、「マンネリに陥った」なんていうことを言うことに意味などないのでしょう。

死後発表された『移動祝祭日』、この最晩年の作品でヘミングウェイはこうした短編を書いていたパリの日々を振り返っています。ノスタルジーから振り返っているのではない。当時の活力を、自分のうちに取りもどそうと、必死の格闘だったのだと思います。それこそ、ニール・パートが書いたみたいに、拒むような白紙のページを見つめながら、憤りの涙を流しながら。かつては虚構(ファンタジー)の世界を、現実の世界と同じように、強烈なリアリティをもって作り上げることができた人なのに。

けれども、わたしはその試みを「失敗」だったとか、そんなふうに言いたくはない。ヘミングウェイは失ったものはあったけれど、それでもなお、得たものはあり、築いた世界はあったのだ、と。

わたしたちは〈いま〉という時間を生きています。けれどもそれは過去と無関係でもなければ、未来と無関係でもない。その人が生きてきた過去を凝集させたものであり、同時に未来をも織りこんだものなのだと思います。ヘミングウェイはそうした〈いま〉を、燃焼させていった人だったのでしょう。初期の短編の場面場面に、登場人物の〈生〉が凝集されているように。

もうすぐ2006年という年が終わります。

振り返ってみれば、あっというまに過ぎてしまったようでもあるけれど、同時に、去年の年末とはさまざまなことが変わっている。このサイトもささやかな積み重ねではあるけれど、それでも少しずつ、いろんな文章が増えていっています。

わたしのささやかな試みにおつきあいくださって、ほんとうにありがとうございます。コミュニケーションが、何かを送り出すことから始まるのではなく、受け手が受けとったところから始まるのだとしたら、わたしが書いたさまざまな文章が世界に立ち現れるのも、読んでくださったところから始まるのだと思います。

読みにきてくださって、ほんとうにありがとうございます。
そうして、これからもよろしく。

自己言及的なわたしは、自分の内にある「わからないこと」をなんとか言葉で埋めながら、そうすることで、自分自身を作り上げていくのだと思うのです。そうやって、少しずつ読むこと、書くこと、聴くことを続けて行こう、と。

ニック・アダムズがオール・アンダースンの生に立ち入ることができないように、だれもがひとりひとり、自分の生を生きていくしかない。ときに、ニックのように、それがたまらないと思ってしまうこともあります。それでも、たとえ「この町」を出たところで、どこかでどれだけ親しい人ができて、たとえその人に緊密に関わることになったとしても、それでも自分がひとりであることには変わりはない。親しい人ができれば、心を深く通わす他者ができれば、それでも相手のわからなさがいっそうくっきりと感じられ、よけいに孤独を味わってしまうものなのかもしれません。

それよりは、"犀の角のように"、ひとりと、ひとり、それぞれが孤独のうちに歩むものとして、遠くに相手の存在を感じながらともに歩いていく、そういう関係の築きかたがあっていい、と思います。
一緒に歩いていきましょう。

それではみなさん、よいお年をお迎えください。
それじゃ、また。

Dec.30, 2006




Last Update 12.23

「音楽堂」に 「日付のある歌詞カード 〜"Losing It"」をアップしました。

「音楽堂」はあまりに個人的趣味に走っているので、ここでアナウンスするのも気が引けるのですが、このところ更新ができなかったので、まあ枯れ木も山のにぎわい、というか、アリバイ作りというか、ここにも書いておこうかなと思いまして(笑)。

以前、ある人の声を聞いて、なんて悲しい声をこの人は出しているのだろう、と思ったことがあります。表情も見ることができない、録音された、機械を通した声をほんの一度聞いただけで、自分はいったい何を根拠にそんなことを思ったのだろう、と、のちのち考えたものです。自分が聞きたいことを聞いたと思ったのではないか。耳の奧に残ったと思うその声も、しょせんは捏造した記憶ではないのか。

そのときに限ったことではありません。声や、あるいは音や、ときにはその人が撮った一枚の写真、メモの切れ端に書き殴った肉筆の文字、そうしたものを見て、ふいに、その人にふれた、と思う。言葉とは別に、確かにその人の一部に手が届いたように思う。そういう感覚って、いったい何なんでしょう。

音楽にしてもそうです。
わたしが「聴いた」と思っているもの。
もしかしたら、わたしの妄想に過ぎないのかもしれません。わたしの内でしか意味をなさないものなのかもしれない。耳を凝らし、捕まえて、言葉にしようとしても、そんなことはまったく無駄なことなのかもしれません。
それでも、半ば、疑いながらも、わたしは自分の外へ送り出して行きます。たとえそれが妄想であっても、それでもほんの少しでも、ほかの人の聴く音と重なり合う部分があればいい、と祈りながら。

逆に、自分が書いたものではないのに、自分にそのまま当てはまる、ここにわたしがいる、と思うような文章を目にすることもあります。おそらくそれはわたしにだけ当てはまるのではなく、同じようにその文章を目にした多くの人が「自分のことだ」と思のでしょう。そうして、それこそがヴェーユのいう「抽象から具体へ向かう言葉」なのではないだろうか、とも思うのです。

このあいだ、こんな経験をしました。
ジュンク堂で、ふと手にとって広げた本の一節に、わたしは胸を衝かれました。ここにわたしがいる、と思ったんです。


エンリケ·イグレシアスは再びRegisおよびケリーのライブになります

 はじまりというのは、何かをはじめること。そう考えるのがほんとうは順序なのかもしれません。しかし、ちがうと思うのです。はじまりというのは、何かをはじめるということよりも、つねに何かをやめるということが、いつも何かのはじまりだと思えるからです。…

 ひとの人生は、やめたこと、やめざるをえなかったこと、やめなければならなかったこと、わすれてしまったことでできています。わたしはついでに、やめたこと、わすれたことを後悔するということも、やめてしまいました。
 煙草は、二十五年喫みつづけて、やめた。結局、やめなかったことが、わたしの人生の仕事になりました。―読むこと。聴くこと。そして、書くこと。

 物事のはじまりは、いつでも瓦礫のなかにあります。やめたこと、やめなければならなかったこと、わすれてしまったことの、そのあとに、それでもそこに、なおのこるもののなかに。

長田弘『すべてきみに宛てた手紙』(晶文社)

煙草こそ吸ったことがありませんが、楽器を演奏することも、絵を描くことも、やめてしまいました。ほかにも、いろんなことをやめてきた。やめなきゃいけないこともありました。
それでも、あのときやめなければよかった、やめざるをえなくて残念だった、そんなふうに思ってしまうと、そのときまで積み重ねたことすらも、意味を失う。わたしはそんなふうに思いたくはない、と思っていました。やめたから、いまのわたしがいるのだと。やめたことが、やめざるをえなかったことが、いまのわたしを作り、これからのわたしにつながっていくのだと。

そう思っていたわたしに、長田弘のことばは、自分の内側から聞こえてきたようでした。
そういうこともあるのだ、と。
たとえ自分が聴いたと思った音が、個人の耳にしかきこえないものであっても、適切に表現されるなら、それはほかの人の耳にも届くのだ、と。
そういう表現をめざしていこうと思います。

もしかしたら、かなりマニアックなバンドの、それもかなりマニアックな曲なのかもしれません。それをヘミングウェイを引っぱりながら書いてみました。やっぱりこんなこと、自分以外のいったいだれに意味があるんだろう、という気持ちはどうしようもなくするのですが、これを読まれたかたが、ラッシュ、おもしろそうだな、聴いてみようかな、と思ってくだされば、もうそれで十分です。
いやほんと、ニール・パートの音は、ほんとうにすごいです。もうわたしは「一生ついていきまっせ」(なぜに大阪弁…)なのです(笑)。

このかん、母がケガをしたりして、不安に呑みこまれそうになったり、さまざまなことを考えたりしました。ケガをした母にこんなことは言えないのですが、わたしにとっては良い経験でもありました。「経験するとは学ぶことであり、あたえられたものに働きかけて、そこから何かを生みだすことである」「経験とは、危機を克服することである」という、イーフー・トゥアンの言葉が、ここまで胸に深く届いたのも、その出来事があったからでしょう。そうして、その意味で「学ぶ」ことができるかどうかは、わたしにかかっているのだ、と改めて思います。がんばらなくちゃ。

全然忘れてたんですが、明日はクリスマスなんですね。クリスマスネタは去年けっこうまとまったものを書いたので(「'TWAS DA NITE ――クリスマスの思い出」)、どっちにせよ、今年は書くことがなかったとは思うのですが(笑)。

ともかく、みなさま、よいクリスマスをお過ごしください。クリスマスの平和が地に満ちますように。

それじゃ、また。

Dec.23, 2006




Last Update 12.05

カーソン・マッカラーズの短編『過客』をアップしました。

Memento Mori(死を忘れるな)という言葉があります。
言葉を使い、記憶を蓄積し、ある人の死と別の人の死を結びつけて考えることができる人間は、自分がかならず死ぬことを知っています。
ふだんはそんなことを考えることもない。自分が十年後、二十年後も生きているものとして、さまざまな計画を立て、将来を思い描きます。

それでも訃報を耳にしたりすると、ふっと死神に頬をなでられたような感覚を覚えます。どれだけ忘れよう、遠ざけようとしても、死はそこにあるのだと思い知らされる。
確実に自分に訪れることがわかっていても、それが実際にはどんなものかわからない。だからよけいに恐ろしいのかもしれません。

一方で、わたしたちは何をするにしても、一定の期限をかならずといっていいほど決めてやっていきます。外側から決められることもあるけれど、自分でも決めていく。いつまで、と時間的な区切りをつけることによって、やることにメリハリをつけていくのです。

もし、人が死ななかったとしたら。そうなると、人は代謝をおこなわず、生殖も必要なく、もはや時も存在せず、引き延ばされた「現在」が、延々と続いていくのでしょう。それは、おそらく生とは呼べない光景ではないかと思います。

そう考えると、やはり死と生は同じことの別のありようなのかもしれません。死という区切りがあるから初めて生というありようがあるのだと。

自分の生が限られたものであることを認識した主人公ジョン・フェリスは、なんとかそこに根を持とうとします。自分の血はつながっていない、けれどもその子供を愛し、絆を持つことを通して、根を持とうとする。

愛は、時の鼓動を、つまり過ぎてゆく時というものを停めることができるのか。
答えは否でしょう。愛というのは、それ自体では何の力もない、ただの心のありようでしかありません。もしなんらかの力があったとしたら、おそらくそれは愛とはちがうものだろうと思うのです。うつろいやすく、あやふやで、不確かなもの。
けれども、わたしは思います。おそらくは、だからこそ、愛することに意味があるのだろうと。それだけでは何の力もない愛を、なんとか繋ぎとめ、そこで時間をかけて育くんでいくなかで、はじめて「過客」であるわたしたちは、ささやかな根を持てるのではないのか。
フェリスは、そのうつろいやすい愛を繋ぎとめることができたのでしょうか。

このささやかな、ひとふしの歌のような短編が、読んでくださった方の中に、細い小さな根を持つことができたら、これほどうれしいことはありません。

さて、急に寒くなって水温が急激に下がったせいか、キンギョが病気になってしまいました。いまは治療用水槽を用意して世話をしてやっているところです。

水槽も大掃除をしなおしたし、再セットアップも無事完了しました。キレイになった水槽が気持ちいい、というのは人間の感覚なんですが、残りのキンギョたちはヒーターの入った水槽のなかを縦横無尽に泳ぎ回っています。ただ、数匹の動きがどうも気になる。相手の体に鼻面(ではないか)をくっつけようとして、もう一匹は逃げ回り、くるくる円を描きながら泳いでいます。わたしの見るところ、おそらくは二匹ともオスなのですが(実は「男宿」「女宿」というように、水槽を男女別にしているのです)、なかなかキンギョの雌雄の判定はむずかしく、わたしもだいたいはわかるのだけれど、もうひとつ自信はありません。そのうち、水草や壁面に黄色い透明なつぶつぶが付着していないことを祈るのみです。
ほんとうに、もうこれ以上キンギョの産卵の世話はしたくありません。ほんと、頼むよ、という気分です(笑)。

あちこちで風邪をひいた話やら咳こむ音を耳にする時期になりました。
どうか、お元気でいらっしゃいますよう。寒さで風邪はひかないけれど、免疫力は落ちます。どうかご自愛なさってください。

ということで、それじゃまた。今朝も四時すぎに目が覚めたので、もう何を書いているのか自分でもよくわかりません。それじゃ、また、ってもう書いてました(笑)。

Dec.05, 2006




Last Update 11.26

「この話したっけ 〜家のある風景」をアップしました。

まだ子供の頃、小説を読むときに、情景描写がじゃまでした。主人公がどんな家に住んでいる、敷地はどんなで、まわりの風景はどんな、そうして、家はどのようなもので、部屋はどうで……。そんな描写がえんえんと続くといらいらしたし、読み飛ばしていたのだと思います。

やがて、小説というものをその機能やはたらき、構造から見るようになって、「情景描写の持つ役割」を知るようになりました。いままで単に書き割りとしてしか見ていなかった「背景」が、どくとくの奥行きを与えるために、そこにわざわざ配置されたのだということを知るようになったのです。

やがて前田愛の『都市空間のなかの文学』という本に行きあい、風景が単なる文学の背景ではないことを知るようになります。そこにいる登場人物たちもまた、風景を構成する一要素である。あるいは逆に、風景も、重要な登場人物である。
わたしはこの本によって、そういう見方ができることを知りました。

そうして、さらに自分の記憶をさかのぼっていくと、さまざまな「家」の記憶が呼び覚まされてきます。わたしはその家を単に見たり、暮らしたりしていただけではない。家、あるいは部屋は、また、わたしの日常生活を構成するものであり、わたしの意識を形づくる要素のひとつでもありました。

日常生活の現実は私の身体の〈ここ〉と私の臨在の〈いま〉の周りに組織されている。こうした〈ここといま〉は日常生活の現実に対する私の注目の焦点をなしている。日常生活において私にあらわれてくる〈ここといま〉は、私の意識のなかでも最も現実的なものである。

P.L.バーガー/T.ルックマン『日常世界の構成』(山口節郎訳 新曜社)

そのときの家が、わたしの意識の中にどのように現れていたのか。
そんなことを考えてみたかったんです。

全体にあっちやこっちへ行っている感じもあるのですが、わたしの記憶が呼び水となって、読んでくださった方の「家」の記憶がよみがえってきたとしたら、これほどうれしいことはありません。

あと「家族の問題 〜マドンナと「家族たち」」も「音楽堂」の方にアップしています。かなりマニアックなネタですが、興味のある方はごらんになってみてください。いまならYouTubeでライブ映像も見ることができます。

「日常生活」というのは、いろんなことが起こります。
それは、確かに楽しいことばかりではない。それでも、それまで知らない何かが起こり、それに反応して、それまで知らなかった「わたし」が立ち現れる。それがなんであるか考え、どうしたらいいか考え、それをめぐって本を読み、だれかと話す。
おそらくそういうことは、わたしにとって「楽しい」ことなのだ、と。
「楽しい」というのは、そういうことを指すのだと、わたしはそんなふうに思います。

「家」をめぐってさまざまな経験を重ね、「家」を通じて、さまざまな世界とふれあってきたのだとも思います。決して単なる「入れ物」だけではない、「家」。

これについてはもう少しまたちがう角度から考えてみたいと思っています。


それにしても、急に寒くなってきました。もう、ほんと、いやな季節の到来です。
外は寒いし、建物の中に入ると暖房で妙に暑いし、朝起きると喉は痛くなっているし、キンギョは風邪をひいちゃったか、いっぴき着底してるやつがいるし。

ああ、早く春が来ないだろうか……。

えらく気の早い願望なんですが、ほんとうにそれは実感です。
どうかみなさまもお風邪など召しませんよう。
お元気でお過ごしください。

それじゃ、また。

Nov.26, 2006




Last Update 11.14

ロアルド・ダールの短編「羊の殺戮」の翻訳をアップしました。これは邦訳『あなたに似た人』(田村隆一訳 ハヤカワ文庫)にも「おとなしい凶器」というタイトルで所収されているのですが、ここでは原題の "Lamb to the Slaughter" をよりストレートに反映させて「羊の殺戮」としてみました。「おとなしい」のは凶器ばかりじゃないよ、ということで。だけど、雰囲気は「おとなしい凶器」の方がふさわしいのかもしれませんが。

十代前半から十年ぐらい、それはそれはたくさんのミステリ(とSF)を読んできました。それを積み上げて実際に目の前に並べたら、おっそろしい量になるのだろうと思います。
つくづく、バカなことをしたものだと思います。時間も、お金も、ほんとうにドブに捨てたようなものだ、と。そんなものを読む代わりに、『戦争と平和』とか(実は一巻の半ばで挫折したきり、読んでません)、『源氏物語』とか(部分的に読んだだけです)、『失われたときを求めて』とか(まともに読んだのはいったいどこまでだろう……)、『チボー家のジャック』とか(買っただけ)、ドストエフスキーの『悪霊』とか(何回読んでも上巻の途中で眠くなる)とか、そんな本を読んでおくべきだった、とつくづく思います。

読むのだけは早かったわたしが、相当なスピードでそういったミステリの数々を読み飛ばしながら、いったい何をしようとしていたんだろう、と、そのころを振り返って思います。
あらゆる経験が、いまの自分を形づくっているのだとしたら、やはり「良いもの」も「たいして良くないもの」も「粗悪なもの」も、とりあえず何もかも取りこんで、そうする中からわたしは自分の嗅覚や、そこにある〈声〉を聞く耳を養っていったのかもしれません。
うーん、だけどそう言ってしまうのは、きれいにまとめすぎてるなぁ。

ともあれ、ダールはそうした中ではずいぶん良質なもの、この作品も、たくさんの亜流を生んだその大元のような作品です。なるほど、と、最後にニヤッとするような、楽しいひとときを過ごしていただければ、これほどうれしいことはありません。

わたしたちの日常は、多くの場合、さしたる切れ目もなく続いていきます。たとえその人とそれっきりもう二度と会えなくなったとしても、多くの場合はそれと知ることなく、サヨナラ、と手を上げて別れの合図をし、そしてまたふだんの生活を続けていきます。

一方、物語はかならず終わります。終わるのが残念なときもあるし、予期せぬ終わり方にあっと驚かされることもあるけれど、とにもかくにも終わりを迎える。わたしたちが得る最大のカタルシスが、この「終わりを見届けることができる」ということなのかもしれません。

けれども、たとえ終わった物語でも、もう一度読み返すことによって、新しい発見があるかもしれない。そういった意味で、その物語はほんとうには終わっていないのかもしれません。

もう会えないかもしれない人であっても、互いに別々の道を歩いていても、その道がもしかしたら、またふたたび交錯することがあるように、物語も、わたしたちの〈生〉の中で読み返されるとき、終わることなく、続いていくのかもしれません。エンタテインメントと、文学のあいだに線を引くとしたら「読み返すことができるかどうか」ということなのかも。

ダールのこの短編は、残念ながら何度も繰りかえして読み、そのたびに新たな発見があるようなものではないけれど、それなりに楽しいひとときを与えてくれるものであると思います。わたしの訳が、そのおもしろさを損なうものでなければ良いのですが。

暖かい秋も、このところぐっと冷えこんで、いよいよ晩秋の気配も深まってきました。駅まで行く街路樹も、ケヤキ、サクラ、イチョウ、ポプラと色を変えていき、日々、色鮮やかになっています。
高くなった空と、見上げる木々の紅葉と。
どうかみなさまが気持の良い晩秋の日々を楽しんでいらっしゃいますよう。

ちょっと翻訳の入り口も整理しなきゃいけませんね。これもかけ声ばかりではなく、ぼちぼちとやっていきますので、いましばらく雑然とした状況をご辛抱ください。

ということで、それじゃ、また。

Nov.14, 2006




Last Update 11.06

「報道の読み方」アップしました。

これはちょうど奈良で妊婦さんが亡くなった報道が、連日新聞紙上をにぎわしていたころに、そうではない別の見方があることを教えていただいたところから起こった問題意識がもとになっています。ブログの連載をしているころは、まだその報道も続いていたのですが、わたしのほうが風邪をひいたりして書き直しに時間がかかっているあいだに、どうなったのかもわからないまま、すっかり目にふれることもなくなってしまいました。

考えてみれば、驚くほどたくさんの情報をわたしたちは新聞やTVのニュースから得ています。
ちょうど、電車に乗っていて、窓から流れていく外の景色を見るように、自分ではその場にいることのない出来事のあれこれを、マス・メディアの報道によって知っていくのでしょう。

「メディア・リテラシー」という言葉を耳にすることも多くなってきました。辞書にはこうあります。

メディアリテラシー【media literacy】

メディアを利用する技術や,伝えられた内容を分析する能力のこと。

三省堂提供「デイリー 新語辞典」より

具体的にはどういうことなのか。どこまでいってもよくわからない言葉です。
リテラシー、という以前に、むしろわたしたちは「書かれたもの」に対して、あるいは「事実」ということに対して、あまりに無自覚なのではないか。

わたしはこれまで「物語をモノガタってみる」や「事実とはなんだろうか」などのコラムで、くりかえし、わたしたちが「物語」という枠組みでものごとをとらえ、理解しようとしていることを書いてきました。内容的には、多少、洗練されてきている(?)とはいえ、根本的に言っていることは、大きく異なるものではありません。
それでも、原因と結果を安直に結び、それをチープな物語にまとめあげる昨今の風潮を考えると、わたしたちは「原因」と「結果」、あるいは「事実」に関して、もっともっと自覚的になる必要があるのではないか、と思うのです。

このログを書いているとき、一方で、大変貴重な本を紹介していただきました。
福岡賢正『隠された風景 ―死の現場を歩く―』(南方新社)という本です。

「犬猫をこうして殺していますて載ったら、はあ、そげなこつばしよらすとばいて、いよいよ恐ろしか所みたいに思うよ。人間は勝手だけんね」
「知らんちゃよかとに、わざわざ知らせた結果、差別さるってこともあっとばい。そげんこつば何でせなんとな」
激しい拒絶にうろたえながら、自問せざるをえなかった。
いったい自分はどうしてこんな取材を始めたのか。触れられたくない人の心の扉を無理やりこじ開けて土足で踏み込むようなことを、なぜ始めたのか。

これは「不要」となった犬猫の「処理施設」で、実際の「処分」に当たる方々の言葉です。
こうした処理施設や、あるいは食肉解体施設で働く人の声を、あるいは遺書に残された人の声を、この新聞記者の方は(この本は毎日新聞関西部版で掲載されたコラムをまとめたものです)丹念に聞き取っていきます。そうして、折にふれ「どうして自分はこれを書いているのか」という自問が差し挟まれる。

このなかに「単なる傍観者でしかない自分が恥ずかしくなるような」という記述があります。
書く人間は、そうして、それを読む人間も、その通り、どこまでいっても傍観者でしかありません。わたしはその「恥ずかしさ」を覚える「感覚」を信頼します。そんなふうに感じることのできる人の書いたものを、読みたいと思います。
そうして、どれだけささやかなものであれ、「書く者」のひとりとして、そういう感覚をわたし自身が持っていたい、と思います。

けれど、その食肉解体処理施設で解体された鶏が、実際にわたしたちの口に入っていくように、わたしたちに無関係な出来事ではあり得ないのも、また事実です。
わたしたちは、自分で見つけたものしか、見ることはできません。「見たくないもの」を見ないことはむずかしいことでもなんでもない。
そうして、これまですぐそこにあったのに、メディアの報道を見ることで初めて気がついて、犯人探しをして、一緒になって批判するのか。
そうではないだろう、と。

だから、少し、見方を変えられないか。わたしたちの思考のクセに気がつくことはできないか。
わたしが言っているのは、あまりにささやかなことですし、もっとちゃんとした形で言っている人もたくさんいます。
それでも、わたしはこう考える、と。
ここで、小さな声をあげることは、少なくともわたしにとって無意味ではないと思っています。

相変わらず、いろんな方のお世話になりながら書いています。
「ある産婦人科医のひとりごと」の管理者様、「新小児科医のつぶやき」の管理者様、記事を引用させていただきました。医学的知識のないわたしにも、両方のブログは理解の大きな助けになりました。
新聞の報道が一面的であることを教えてくださった方、それから、多くの本を紹介してくださった方、ありがとうございました。
「激高老人のぶろぐ」の管理者様、斜めから見たいじめのログは、マスコミの報道といじめ問題をつなげて書いていいものかどうか迷っていたとき、大変参考になりました。ありがとうございました。

さて、このサイトも11月3日で二周年を迎えることができました。「祝二周年」でも書いたように、ここまで続けることができたのもみなさんのおかげです。
内容はともかく、とにかく「書き続ける」ことを目標としているわたしですので、ログだけは増えてきています。ほんと、少し整理も必要なんですが。それもまあ、ぼちぼちとやっていきたいと思います。
これまで読みに来てくださって、どうもありがとうございます。
そうして、これからもよろしく。

本格的な風邪のシーズンを前に、引いちゃったわたしの風邪も、とりあえず大過なく出ていってくれそうです(まだちょっと残っていますが)。
どうかみなさんはお変わりございませんよう。
それじゃ、また。

Nov.06, 2006



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